2026.6.21

[活水湧出](25)

「罪なき人なし」(伝道の書7:15〜29、ローマ3:21〜26)

 

 伝道者(コーヘレス)は4章から6章においてしえたげるもの、権力を振るうものを批判し、ささやかな庶民の生活の中にこそ幸せがあると語りました。真の知恵を求めたコーヘレスは、神と共に歩む日々にその答えを見出しました。そして7章20節では、社会の不条理の根源に罪があることに言及します。

「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」と。

人の不幸の根源にある原罪に気づき始めるのです。

キリスト教信仰と罪からの救いは切っても切れない関係にあります。

罪とは何でしょうか?

罪の本来の意味は「目標を外す」ということです。ギリシャ語では

H a m a r t i aハマルティヤという言葉を用いています。

神によって創造された像を失っている状態を意味します。

 新約聖書において、その半分を書いたと 言われる伝道者パウロにとって、罪からの救いは最重要課題でした。

 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなった」(ローマ3:23)と人間の罪を定義しました。それは一つ一つの違法行為を取り上げているのではなく、神の意思に反して行動する内面的性格を意味しています。私たちの体の中には、生命の法則と罪と死の法則とが互いに戦っているのです。(ローマ7:25,8:2)

 

 「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理は私たちの内にない。」(第一ヨハネ1: 8)

罪を意識することが、私たちにとっては神を意識することです。それは謙遜の道であり、神の前に歩むということです。

 この罪の重荷からの解放は、イエス・キリストの十字架の贖いによるのです。イエスの血潮が、悔い改めるものの罪を許し、その性質をも清めてくださるのです。これが福音です。

 さて、私は藤木正三牧師の言葉を度々引用しています。

「人の罪だけ見ているときは、私たちはその人を裁いています。そして、その人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして神の前に立っています。その際、自分の罪が人の罪よりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、まだ神の前に立っていないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから。」

    キリスト者の人生とは、感謝して、この「神の前に立つ」ことなのです。深い罪の意識があってこそ、罪の赦しの道を求める祈りを捧げることができます。

 伝道の書が書かれた時代にはイエス・キリストはおられませんでした。ですから、これは救い主を待ち望む祈りと叫びであると言っても過言ではありません。しかし今私たちには、十字架にかけられたイエス・キリストの救いの道が示されています。

「彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。」(ローマ3:24)

 重いテーマではありますが、しっかりと心に刻んで歩ませていただきましょう。

神様の祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

小田 彰