2026.4.12

[活水湧出](15)

「週の初めの朝」(マルコ16:9〜13、ヨハネ20:11〜18)

 

イエスが復活された朝、それは週の初めの日でした。朝早く墓に行った婦人たちは墓が空っぽであったことと、一人の青年がイエスが甦られたことを告げたことを聞いて、弟子たちのところに報告しました。当然そこには驚きと喜びが満ち溢れていたのではないかと推測されますが、マグダラのマリヤは納得しませんでした。その墓から去らなかったか、弟子たちに報告した後、再び墓に来たのか、まだ朝早く「墓の外に立って泣いていた」(ヨハネ20:11)というのです。 

 

①マリヤがイエスを思う情愛は誰よりも強かったかもしれません。またイエスはマリヤに再会を約束していたのかもしれません。ここには多くの憶測が飛び交うドラマがあります。復活の朝、天使がそのニュースを弟子たちに告げたとは言え、イエスはマグダラのマリヤにのみ最初に会われたのです。

 

そう言って後ろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたがあの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞおっしゃってください。私がその方を引き取ります」。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤは振り返って、イエスに向かってヘブル語で「ラボニ」と言った。(ヨハネ20:14〜16)

 

復活の日の記録の中で不思議に思われる記事ですね。なぜマリヤは開いた墓に入って、天使のみつげを聞いたのに信じなかったのか。ペテロを始めとする弟子たちに報告したにもかかわらず、なぜ墓で泣いていたのか。復活したと言われたのに、なぜ遺体をどこかに移したかと聞いたのか。

マリヤは誰よりもイエスを愛していましたが、その情愛においてイエスを認めることができなかったのです。それは信仰の目が閉ざされていたからです。

 

②同じ日の夕方、二人の人がエルサレムから田舎のほうに向かって旅していました。

「この日、二人の弟子が、エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、この一切の出来事について語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」(ルカ24:13〜15)

この二人もイエスの弟子であり、大変身近な立場にあった人ではないかと言われています。

「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」(ルカ24:16)

 

マグダラのマリヤも二人の弟子たちも、イエスの死を悲しむという点においては、深い愛情を示していました。しかし、身近に来られたイエスを認めることができなかったのです。この事は今日的に言えばクリスチャンであっても、また聖書の知識があっても、それなりに信仰生活をしていても、聖霊に導かれなければ大切なことが見えないということを意味しています。

 

「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することでである。」(ヘブル11:1)

肉眼で見ること、また手で触れて確認する事は、神の御業を知ることにはなりません。科学的なプロセスで理解しようとしても、信仰の世界はわからないのです。

私は20歳で回心した後、それまでのネガティブな発想が、すべてポジティブな発想に変わりました。私たちの日々の祈りが、「神は答えてくださる」という確信に基づいてなされているか問われています。

外面的な熱心さや、人の良さだけで信仰を測ることはできません。それは聖霊の働きです。聖書の記事の全てが肉の思いでは理解できませんが、信仰の目を持ってしては至極当然なことなのです。

 

聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことができない。(第一コリント12:3)

 

見えないものを見る信仰は聖霊のみ業です。聖書の約束を常識では信じられないが、それを可能にするお方は聖霊です。

 

復活を信じられなかった彼らと私たちは全く同じですが、また目が開かれて、イエスをキリストと崇めることができた彼らと同じように変えられたいと思います。これこそ信仰の奇跡です。祝福をお祈りいたします。

小田 彰