2026.3.22

[活水湧出](12)

「ナルドの香油」(マルコ 14:1〜11、ヨハネ 12:1〜8)

 

受難週の4日目、水曜日のことです。イエスはベタニアでシモンの家で食卓についておられました。(マルコ14: 3)このシモンは重い皮膚病から癒された人物でありましたが、ある程度の屋敷を持っていたのでしょう。この物語は同時にマタイによる福音書26章にも書かれています。しかしヨハネによる福音書では、12章に同じ物語が取り上げられているのですが、過越の祭りの6日前と書かれていて、エルサレム入城の前ということになります。いずれも一人の女性が大変高価な「ナルドの香油」をイエスのもとに持ってきて、その器を割り、お体に塗ったという美しい出来事ではあります。

 

「ナルドの香油」を注いだ一人の献身的な女性は誰であったのかが大変気になります。ルカは「罪の女」と言い、マルコは「ある女」と言い、ヨハネはラザロの妹「マリヤ」と言っています。

 

イエスを祭司長に銀貨30枚で売ったユダが、「それを300デナリで売って貧しい人々に施すべきではないか」と言っていますから、当時の労働賃金300日分と言うことになり大変高価なものになります。ある聖書註解者は、「結婚のために大事に積み立てたものであろう」と想像しています。

 

この美しい出来事の論点は、イエスの言葉の中に現れています。

「この女はできる限りのことをしたのだ。すなわち、私の体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」(マルコ14:8)

2日後には十字架刑で処刑されることになっているイエスにとっては、この献身的な愛の業は、大いなる慰めとなったことでしょう。先日のレプタ2つを捧げた婦人も「できる限りのことをしたのです」と賞賛されました。今、私たちの罪のためにお命を捧げようとしておられるイエスの心には、命がけの献金、命がけの奉仕、命がけの祈りこそが、最も大きな慰めとなったのでしょう。それ以外のすべてのものは偽りであり、偽善でありました。

しかし、彼女の大胆な行為は、彼女がいかに重い罪の意識から解放されたか、いかに深い愛の眼差しをキリストから受けたかを暗示しています。ルカは「この女は多く愛したから、その罪は多くゆるされている。少しだけゆるされたものは少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)と言っています。

 

さて、私たちの信仰と生き方がイエスの心に感動を与えるものであるかという問いは大変深いものです。

さて、信仰の成長とは、キリストを愛する愛に成長することです。それはキリストの赦しの愛を知ることによってのみ可能となります。

 

渡辺和子先生の言葉をお借りします。「愛されて、私たちは愛すべき人に変身していく。そして、やがて愛されるに値する者へと成長していくのだ。」

 

ナルドの香油の香りは、部屋に満ち、そして今日まで福音が伝えられるところでは語り継がれてきました。

 

この女性の業は私たちに何を暗示しているのでしょうか?神の愛を受けて、その愛をお返ししていく生き方とは何を意味しているのでしょうか?

 

この物語を通して祝福が豊かにありますようにお祈りしております。

小田 彰