2026.3.8

[活水湧出](10)

「レプタ二つを」(マルコ12:35〜45、マタイ23:27〜28)

 

受難週の3日目、火曜日に、イエスは学者パリサイ人の偽善を厳しく糾弾しました。ご自身は、金曜日には十字架にかけられることを意識しながら、宗教家たちの不真実に対して深い憤りを持っておられたのでしょう。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場で挨拶されることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。」(マルコ12: 38、39)

 

マタイはさらに厳しく批判しています。

「あなた方は白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このように、あなた方も、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイ23:27、28)

 

偽善とは、神と自分との間に、物や金銭や自分の名誉などが存在することです。外見的によく見えても、神の目の前においては、実に愚かで醜いものです。

 

さて、このような話をしているときに、イエスの目は一人の貧しいやもめ女の献金の姿に捉えられました。そこに対照的な真実の姿があったからです。

 

ところが、1人の貧しいやもめが来て、レプタ2つを入れた。それは1コドラントにあたる。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、賽銭箱に投げ入れている人たちの中で、誰よりもたくさん入れたのだ。みんなのものは、有り余る中から投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。(マルコ12:42〜44)

 

賽銭箱は、エルサレム神殿の「婦人の庭」の柱廊のそばに置かれているラッパの形をした13の箱であると言われています。レプタは、最小の銅銭で、コドラントはローマ人にわかるようにローマの最小銅銭に比較して注釈をつけています。

 

この婦人は貧しく捧げるお金を持ち合わせておりませんでした。しかし、今ある全てを投げ入れたのです。それは明日の事は神様に全てを委ねるという信仰があったからなのでしょう。生活費全部であったのです。

 

さて、以前にも申し上げましたが「祈り」とは祈ることではなく「その人の信仰」です。命までも捧げる思いで全てを捧げる時、神はまた明日の必要は満たしてくださるという信仰ですね。「祈りも、献金も、献身も、信仰の行為でなければなりません」。

英語では献金のことを

Offeringと言いますね。祭壇の上に動物を捧げて、その煙を天に届かせるという祈りです。創世記22章では、神はアブラハムにその子イサクを捧げよと命じられました。そして彼を殺そうとしたとき、「わらべを手にかけてはならない…あなたが神を恐れるものであることを私は今知った」と言われ、1頭の雄羊が代わりに捧げられました。そしてその所の名をアドナイ・エレ(主の山に備えあり)と呼んだと書かれています。(創世記22:14)

 

アブラハムの信仰から、100%従順であることに対し、神は100%報いてくださるという真理を学びますね。

 

この貧しい婦人のささやかな行為が、十字架に向かうイエスの心を慰めたに違いありません。

今週も神様の祝福が豊かにありますようにお祈りしております。

小田 彰