2026.2.15

[活水湧出](7)

「そのろばの子」(マルコ 11:1〜11、ゼカリヤ 9:9〜10)

 

 

2月18日より4月4日まで、レント(受難節)に入ります。主のご苦難を思索する時です。聖書全体の中心テーマはメシアの死です。すなわちイエス・キリストの十字架の死です。我らの罪のためにイエスが死ななければならなかったことを、毎年繰り返し繰り返し思いめぐらすのです。

いかに私たちの罪が深いものであるか。

しかし、いかに神の愛は偉大で深く優しいものであるか。

その犠牲となったイエスのお苦しみは如何ばかりであったか。

我らはこの愛にいかにして応えることができるか。

 

昨年マルコによる福音書の10章まで学びまして、再び11章に戻ります。それはパームサンデーから始まる受難週の記録です。

イエスはついに公の立場を宣言し、エルサレムに入城されます。

誰も乗ったことのないろばの子に乗って入城されました。

 

イエスは二人の弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこに入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。もし誰かが、あなた方に、なぜ、そんなことをするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。また、すぐ、ここへ返してくださいますと言いなさい」(マルコ11:2〜3)

 

イエスは、この日のためにろばの持ち主に連絡してあったのでしょうか?神は御子イェスの最後の1週間を計画しておられました。

 

ここで大事なメッセージは、

①「主がお入り用なのです」と言った時に、すぐにそれを受け入れた持ち主がいたことです。そして、子ろばは、その本来の性質でもありますが、黙々として従順に従ったのです。

私たちはこのろばのような存在です。神様が必要としておられることに対して、即座に素直に従うことができるかが問われています。信仰とは従順であり、服従であります。

 

②イェスがろばの子に乗って入城されると、

前に行くものも、後に従うものも共に叫び続けた、「ホサナ、主の御名によって来たる者に祝福あれ。…」(マルコ11:7〜10)

 

ゼカリヤ初9章9節に預言の言葉があります。

「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者であって、勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわちろばの子である子馬に乗る。」

 

これはゼカリヤがBC 333年に、ペルシャを破ったギリシャのアレキサンダー大王が、エルサレムへ入城する姿を預言したものと思われます。しかし、福音書の記者は、それが救い主、イェス・キリストの姿であったと受け止めているのです。

 

白馬にまたがった勝利者ではなく、人類の救いのために、死ぬべきお方として謙遜の姿で入城されました。

 

③群集の歓呼の声で迎えられた、イエスの心を想像してみましょう。彼はご自身の最後の1週間であることを知っておられました。その心は十字架の死を前に、深く痛んでいたことでしょう。ここに外側の栄光と内側の悲しみの事実があります。

 

さて、人間は、外面的人間と内面的人間と二重性を持っています。特に、社会生活においては、外面的な長所、あるいは見た目、学歴や地位、自らの気力を奮い立たせて人に接しているのです。しかし、それはその人物の真の姿ではありません。内面的な人物は、不安や恐れ、弱さや悲しみ、人に言うことができない過去の心の傷を持っています。それを決して表に出さないで、外面的自分の殻をもって人に接しているのです。そこに罪があります。その深い罪の赦しのために、イエスは十字架にかかられました。神の愛と救いは、その内面の痛みと傷を癒すものです。醜い姿を清めてくださるお方こそ、聖書の神なのです。

 

栄光の王の王としてのエルサレム入城は、実は、私たちの内面的罪の苦しみに対する密かな慰めの御業であったのです。主の内なる苦しみこそ、私たちの魂の奥底の苦しみのためでありました。そのことを覚えつつレントの季節を過ごして参りましょう。

深い神の祝福があなたの心に与えられますようにお祈りいたします。

小田 彰