「ただイエスだけが」(マルコ9:1〜13、出エジプト24:12〜18)
マルコによる福音書8章で、イエスは自ら十字架に向かって進んでいくことを告白しました。またペテロはイエスこそキリスト、救い主であることを告白しました。そして9章に入ります。
今日のテキストは「イエスの変貌」と言われるところです。なぜこの記事が福音書の中にあるのか?(マタイ17:1〜8、ルカ9:28〜36)
私たちの地上の知識では及ばない天上の世界です。しかし、しばしば信仰生活においては、霊的な不思議な現象に遭遇することがあります。実は、それが大切なことなのですね。
ペテロは目の前でイエスの姿が輝かしい光の世界に変わり、モーセやエリヤの登場により、神の国の会議が開かれた情景を見たことが、後に迫害の時代に生きるものの確信となったことを記録しています。
「私たちの主、イエス・キリストの力と来臨とを、あなた方に知らせた時、私たちは、巧みな作り話を用いる事はしなかった。私たちが、その威光の目撃者なのだからである。」
(ペテロ第二の手紙1:16)
迫害の時代に、自ら殉教の道をたどっていながら、あの山の上でイエスのみすがたが輝く姿に変貌したことを目撃したことが、キリストが再び来られる時、そのような情景であろうと確信を持っていたのです。
6日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その衣は真っ白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることができない位になった。するとエリヤがモーセとともに彼らに現れてイエスと語り合っていった。(マルコ9:2〜4)
①その山はヘルモン山であったと思われる(2800メートルの頂きには一年中雪があった)
②同行したのはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人のみ。この3人は十字架の前夜、ゲッセマネの祈りの場に同行しました。イエスの最も深い悩みの時にそば近くいた3人でした。
③「すると、雲が湧き起こって、彼らを覆った」(7節)雲に包まれる山上の出来事は、出エジプト記24章15節でシナイ山上でモーセが雲に包まれ、神の声を聞き、十戒の石の板をいただいた出来事と関連している。
④旧約の律法の付与者モーセと預言者の代表であるエリヤがイエスと世界の救いの御業について語り合っている姿は、天国の会議と思われる。それを弟子たち3人が見ている。ここでユダヤ教の歴史と断絶したキリスト教ではなく、神の国の歴史の中で、イエスが十字架にかかられたのだと言うことが示されている。
「イエスがエルサレムで遂げようとする。最後の事について語り合っていた」(ルカ9:31)
私たちの信仰生活が、現実の日常生活の延長線上で忙しくなされている時、イエスのそばにあって、神の国の栄光を見ると言うことには程遠いのである。試練や苦しみの中において、常識破りの熱情を持って、神の御助けを求める時、しばしばイエスとの不思議な出会いをすることがある。それは長い信仰生活を最後まで走り抜くための大きな力となる。
すると、雲がわき起こって彼らを覆った。そして、その雲の中から声があった、「これは私の愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見回したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが自分たちと一緒に居られた。(7,8節)
「ただイエスだけがおられた」とはなんと尊い言葉でしょうか。私たちが現実問題の中で振り回され、多くの思想家や宗教家や神学者や評論家にむしろ混乱に陥れられている時、振り返ると「ただイエスだけ」がいてくだされば、それで幸いであり解決があるのです。
このイエスの変貌の記事は、福音書の中の中心に置かれ、彼が地上に歩まれながら、常に神の国の連絡の中に十字架に向かっていかれたのだと言うことを証明しています。
あなたの信仰生涯のどこかで、イエスに取りすがってその栄光を見せていただく経験をなさることを、深く祈りつつお勧めいたします。
小田 彰