2025.9.21

「幼児のように」(マルコ9:30〜37、マタイ 18:1〜11)

 

9月22日、目黒パーシモンホールにおいてヘンデル作曲オラトリオ「メサイア」の公演をいたします。20歳の時に初めて聞いた「メサイア」は、イエス・キリストの預言と十字架と復活と永遠の命の希望を私に示してくださいました。1741年8月22日に作曲を開始したヘンデル自身も、この作曲を通してイエス・キリストの実像を見たのです。当時56歳の盛りを過ぎた大作曲家が、人生の黄昏時に、自らの作曲を通して、慰めと赦しと希望を見出しました。彼自身が想像もし得ないほど、この曲は長く、世界に拡大し、イエス・キリストの素晴らしさを伝えることとなりました。彼がその第2部で渾身の作曲をしていますが、そのテーマはイエスの受難であり、それは謙遜の限りを表現しようとしたのです。

 

マルコによる福音書第9章はイエスのガリラヤ伝道の最後のメッセージです。それは天国の住民の条件を語り始めています。

 

弟子たちは、ひそかに誰が一番偉いかと議論していたのです。ヘルモン山頂でイエスの栄光の姿を見、山から下っては病めるものを癒された情景を見てきましたが、彼らの心は、地上のこと、自分の利益と名誉のことにとらわれていました。そこでイエスは一人の幼な子を見出して語られました。

「誰でも一番先になろうと思うならば、一番後になり、みんなに仕えるものとならねばならない。」そして、一人の幼な子を取り上げて、彼らの真ん中に立たせ、それを抱いて言われた。「誰でもこのような幼な子のひとりを、私の名のゆえに、受け入れるものは私を受け入れるのである。」(35〜37)

ここでイエスは幼な子をいかなる意味で取り上げたのでしょうか?

①幼な子は競走せず

②幼な子は比較しません。

 

弟子たちは、わずか12人の中で、誰が一番偉いかと語り合ったのです。誰でも他の人よりも優れたものでありたいと思い、また評価されたいと思うものです。無意識に他の人と比べて、優越感に浸ったり、劣等感にさいなまれたりするものです。このような心の動きは、地上の肉の動きであって、神の国の住人の姿ではありません。

主イエスは「謙遜の道」を歩まれました。それは神の国の住人の姿なのです。

シスター渡辺和子先生は言っています。「本当に謙遜な人というのは、持っているものを持っていますと言い、持っていないものを持っていませんと、素直に言うことのできる人であり、それができたら、どんなに自由で、おおらかでいることができるだろうかと思います」と。言葉を変えて言えば、「ありのままに生きること」ではないでしょうか。

 

伝道者パウロはガラテヤの教会の人たちに語りました。

「私の幼な子たちよ。あなた方のうちに、キリストの形ができるまでは、私は、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:19)

 

私たちの心の動きやその言葉がキリストの姿にかなったものであるでしょうか。私たちの存在がイエスのお姿であるでしょうか。地上に生きながらにして、天国の住人としてふさわしいものでありたいものです。

 

イエスは弟子たちの愚かさを見ながら、小さな幼な子にこそ模範があることを示されました。この御言葉があなたにも導きの光となりますように祈ります。 

小田 彰