「もしできればと言うか」(マルコ9:14〜29、ヨハネ11:32〜44)
聖書の全巻は、創世記から黙示録まで、「信仰はあるか?あなたは神を信じるか?」という問いかけで満ちています。あらゆる出来事の中で、あらゆる歴史上の変化の中で、あらゆる不可能と思われる条件の中で、あなたは神を信じますかと問われているのです。
先週はヘルモン山上のキリスト変貌の栄光を見ました。弟子たちは今山を下り、その麓で悲惨な物語に直面しています。
そこには、てんかんの持病を持ち、話すことのできない少年が待っていました。劇的な体験をした弟子たちも、その病を癒すことはできなかったのです。父親はイエスの姿を見て、この大先生のところに行ってお願いしようと思って、
「しかし、もしできますれば、私どもを憐れんでお助けください。」(23節)と願い出ました。
英語の聖書にはイエスの言葉のみを赤文字で印刷したred letter edition という聖書があります。
福音書中の多くの奇跡の出来事について、科学的に正しいかとか、そんな事は実現するかとか誰でも考えるものです。しかし、大切な事はその出来事の中でイエスは何と言ったかということなんですね。それは神の言葉なのですから。
①「あぁなという不信仰な時代であろう。いつまで、私はあなた方と一緒におられようか。いつまで、あなた方に我慢ができようか。その子を私のところに連れてきなさい」(19節)
私たちの現実の生活の中で直面している問題を、率直に「イエスのもとに持ち出す」のです。「その子を連れてきなさい」とはなんとわかりやすい、率直な神の招きでしょうか。
②「もしできればと言うのか。信じるものには、どんなことでもできる」(23節)「もし」という言葉は、神の力を引き出すためには最も大きな妨げです。半信半疑ではいけません「あなたしかいないのです。あなただけが癒すことができるお
方です。ですから、助けてください」と率直に嘆願すべきですね。信じる者には不可能がないと言うのです。
③「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」(29節)他の箇所には断食によらなければと書いてあります。しかし、むしろ信仰による祈りによらなければと言うべきでしょう。
イエスは私たちにためらうことなくストレートに願い求めることを待っておられます。そこに信仰の奇跡が起こるのです。
マクラレンは、「私たちには欲するだけの神の宝を持つことができる信仰の鍵が与えられている。その鍵を用いて神の豊かな富をためらうことなく受け取ろう」と言っています。
世界で最も広く知られている聖書註解者であるマシュー・ヘンリーは、「積極的な信仰とは、まだ事がなされていなくても、その約束のために神に感謝することである。神の約束は現金と同じである」と言いました。英国社会では小切手をよく用いましたが、神の約束は小切手ではなく、現金を手にすることなのだと言っているのです。
さて、この少年は、イエスの言葉によって癒されました。そして、私たちには不可能と思われる逆境の中で、神は解決を与えてくださると信じ得るかと問われています。それが病であっても、社会的問題であっても、経済的問題であっても、そして世界に広がっている戦争の問題であっても、「それをイエスのもとにさらけ出して」祈る時、必ず解決が与えられると聖書は語っています。
聖霊が、あなたの心を信じないものにならないで、信じるものとなるように導いてくださいますようにお祈りいたします。
小田 彰