「十字架の道」(マルコ8:27〜38、第一コリント1:18〜25)
マルコによる福音書は8章から後半に入ります。北部ガリラヤ地方における宣教と奇跡の記録から、エルサレムでの殉教の道へ出発します。
それは十字架への道であり、弟子たちは、共に十字架を担うことが求められていました。
現在私たちがイエスを救いと信じ、神の御言葉をいただくようになりましたのは、ひとえに十字架と復活があったからですね。福音書の素晴らしい教えも、クリスマスの美しい物語も後になって編集されたものです。そして今日も素晴らしいクリスチャンの証人たちは皆、イエスの十字架の道を歩いた人たちでしたね。
イエスの弟子となる条件とは何だったのでしょうか?
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。自分の命を救おうと思うものはそれを失い、私のため、また福音のために自分の命を失うものは、それを救うであろう。」(マルコ8:34、35)
①自己放棄、自己犠牲を選び、
②日々自分に託された十字架を担い、
③肉体的生命よりも、永遠的生命を選択し、
④殉教を覚悟し、
⑤神の愚かさに徹すること。
これこそ「十字架道」です。
ペテロを始め、弟子たちはその言葉の意味を理解しませんでした。キリストの復活の後、その身をもって理解し、殉教して行ったのです。
パウロは十字架について深く語っています。
「十字架の言葉は、滅びゆくものには愚かであるが、救いに預かる私たちには神の力である。…しかし私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。…神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(第一コリント1:18.23.25)
「私は、キリストと共に、十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19〜20)
アレクサンダー・スメリーは次のように語っています。
「私はもっと高い仕事をする力があるのに、卑しい狭い範囲に満足しなければならないことがある。
私を苦しめた人に対しても、愛と親切な心を抱かねばならないこともある。
主の御言葉の意味を考えることを望まない人たちの間でも、イエスを告白しなければならないことがある。
自分の心が痛んでいるのに、人々の間に出入りして、素晴らしい朝を迎えたかのような顔を見せねばならないこともある。」そしてさらに、
「私たちは重荷の中で成長する」と結んでいます。
これは主が私たちに命じて取り上げさせてくださる十字架の現実的な形ですね。そこに十字架道があります。
しかし、この道を共に歩いていきましょう。それは栄光の道であり、天国へ通じる唯一の道であります。
祝福が豊かにありますように。
小田 彰