「何か見えるか?」(マルコ 8:22〜26、イザヤ 32:1〜8)
カぺナウムの東側に位置するガリラヤ湖畔の町ベツサイダでの盲人の癒しの記事です。たくさんの癒しの奇跡の物語の中から、どうしてこの物語が選ばれたか。全16章にわたるマルコによる福音書の後半の序文的な意味があると言われます。
イエスはこの盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何が見えるか」と尋ねられた。(23節)
イエスは彼を連れてきた人々から、引き離して村の外に連れ出し、一対一の関係において癒しを始められました。(私たちが神の御助けと奇跡を求める祈りを捧げる時、日ごろの人間関係から隔離され、一人神の前に祈ることが必要です。)
すると彼は顔を上げていった、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。それからイエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見え出した。(24-25節)
ここでイエスの癒しの方法にニ段階のプロセスがあることがわかります。初めはぼんやりしていたが、徐々にはっきりと見えるようになったと言うのです。イエスはニ度別々に手をつけています。そして「何が見えるか」と二度尋ねているのです。
マルコは7章の耳の聞こえない人の癒しと、この目の見えない人の癒しを、9章からの十字架の道の本質的な出来事の序文としています。
「あなたは何を聞き、何を見ていますか」この質問が、私たちにも投げかけられているのです。弟子たちは、イエスと共にいましたが、その語る言葉を理解しませんでした。また後にイエスが十字架につけられて、死なれたとき、見ていましたがその意味を理解しませんでした。私たちは見ているが理解せず、聞いているがわからないでいるのです。
今日私は「信仰による開眼」「霊的洞察力」あるいは「気づき」について思いめぐらしております。
英国の宗教改革者、ジョン・ウェスレーが「第二の転機」と語ったことも、このテーマに当てはまるかもしれません。幼児洗礼を受けてクリスチャンとなっていても、徹底的な罪の悔い改めと聖霊の満しによる信仰復興なくして、本物のクリスチャンと言えないというのです。水のバプテスマだけではなく、聖霊のバプテスマの必要です。
もう一つの着眼点は、人生における不幸と思われる出来事を、信仰の目覚めによって、むしろ感謝すべきことと受けとることができるかという問いかけです。
ヘレン・ケラーは「私の辞書には不可能と悲惨と言う文字はない」と言いました。三重苦を背負って生きましたが、キリストの愛によって全てを感謝する人と変えられました。信仰による開眼です。
瞬きの詩人と言われた水野源三は、「悲しみよ。悲しみよ。お前が私をこの世にはない大きな喜び、変わらない平安である主イエスの御元に連れてきてくれたのだ」と言いました。寝たきりの何もできない生活にもかかわらず、イエスの愛を知ったとき、そこから喜びの詩が生まれてきたのです。
私が、最も尊敬する科学者であり、数学者であり、思想家であったパスカルは、病のデパートと言うほどの病苦を持っていましたが、「私の病苦は、神が私を神の方へ縛り付けておくために与えられたもので、病弱のために、誘惑や野心からも免れ、神のことだけを思うようにさせられました。」と語ったのです。
明らかにこれらの証言は、信仰による開眼によって、イエスの手が触れられた時、新しい希望の光を見るようになった人たちの言葉です。
今、私たちも現実を見ながらも、全く異なる神の世界を見ることができるという御言葉の導きを受けています。その時あなたは、心の底から、全身全霊をもって神に感謝し、褒め賛えることができるのではないでしょうか。ハレルヤ。
小田 彰