「エパタ」(マルコ 7:31〜37、イザヤ 35:1〜7)
先週は異邦人の地、ツロの少女の癒しでした。また、イエスはガリラヤ湖畔に戻ってきました。彼の姿を群衆は見逃すことなく、病の癒しを求めて迫って参りました。福音書における病の癒しの記事は、一つ一つ深いメッセージを持っています。
すると人々は、耳が聞こえず、口の聞けない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。(マルコ 7:32)
ルカによる福音書では、イエスが悪霊を追い出しておられたとき(ルカ 11:14)と書いています。単なる病と言うより悪霊の働きであったことが強調されています。
この人物が、地域の人から大切にされ、何とか癒されるようにと祈られていたところに、イエスが来られた様子が伺い知れます。
イエスはどのように行動されたのでしょうか?
①彼1人だけを群衆から引き離し
②両耳に指を差し入れ
③つばきで舌を潤し
④天を仰いでため息をつき
⑤「エパタ」と言われた。
すると、彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。(マルコ7:35)
この記述で最も大事と思われる事は④イエスがため息をつかれた事です。ここで用いられている。ギリシャ語「ステナゾー」は深い同情を示す言葉だと言われます。
聖パウロもこの言葉を用いています。
御霊自ら、言葉に表せない切なるうめきをもって、私たちのために執りなしてくださるからである。(ローマ8:26)
イエスはこの人物のために深い同情を寄せられました。しかし、それは耳が不自由で口が聞けないからではなく、彼が大きなサタンの力に縛られていることに対する同情であり、その結果、「エパタ」という解放宣言をされたのです。
さて、現代において、人と人との関係で会話ができない、語る言葉が理解されない、嫌悪感を持って沈黙するようなことが社会全体に見れると言っても過言ではありません。それは家庭においても、職場においても、友人関係においてもしばしば存在することです。
人と人とのコミュニケーションが破綻する理由はたくさんありますが、
単純化して3つのことを申し上げます。
①罪の存在、あるいは心の傷やショック
②信頼の喪失、恐怖心
③(聖書的には)悪霊の働き
そのような角度からこの記事を読むならば、ただイエスが病人を癒したということではなく、現代社会の人間関係に存在する閉ざされた心の問題に対する神の癒しと理解するべきではないでしょうか。
私たちがクリスチャンであったとしても、「今直面する問題のために、神の声を聞くことができない」、あるいは「大胆に福音を語り、喜び、感謝し賛美することができない」。このようなこともイエスの癒しを必要とすることではないかと思います。
今日、あなたに「エパタ」と解放のみこえをかけてくださるイエスに正面から祈りましょう。
今週も、あなたの心が喜びと賛美に満ち溢れる日々でありますようにお祈りいたします。
小田 彰