「宣教と代価」(マルコ 6:14〜29、第二テモテ 3:10〜17)
先週触れなかった部分に、イエスが弟子たちを2人を1組にして各地の伝道に派遣した記事がありました。弟子たちは奇跡を行い、病を癒し、そして悔い改めを宣べ伝えたと書かれています。
そして30節に「さて使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、皆報告した」と言うのです。
その報告の中に、バプテスマのヨハネが殉教したニュースがありました。
するとイエスは彼らに言われた、「さぁ、あなた方は、人を避けて寂しいところへ行って、しばらく休むが良い」。
そして船に乗せて、弟子たちを送り出してしまうのです。
それはイエスが深いショックを受けて、孤独な祈りの時を持ちたいと思ったからでしょう。
同労者であり、先輩であるヨハネの死は、イエス自身のきたるべき、十字架の死の予兆でもありました。
マルコ福音書の特徴は、大切な文脈の中に、別の出来事を差し挟む、サンドイッチ型の編集と言われます。
今日のテキストはイエスの名声が高まったために、その噂がヘロデ王にまで伝わって、彼の心を不安にさせたということです(14〜16節)。
ここでヘロデ王と言われる人物は、イエスが誕生したときに、2歳以下の子供を殺したヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アンテパスです。
実際はガリラヤ地方の領主であったのであって、国王とは言えないでしょう。
彼の妻ヘロデアはやはりヘロデ大王の孫でしたが、先にいとこにあたるピリポ一世と結婚しましたが、離婚してやはりいとこに当たるアンテパスと結婚していたのです。
そのことをバプテスマのヨハネは「ふさわしくない」として責めたのです。
アンテパス主催の宴会の席で、ヘロデアの娘サロメが魅力的な踊りを披露しました。
アンテパスは褒美として国の半分でも与えると言いましたが、母ヘロデアは牢屋の中にいるバプテスマのヨハネの首を求めたと言うわけです。イエスの出現はこのヨハネの復活ではないかとアンテパスは恐れて不安になったと言うのですね。アンテパスは、ヨハネの人格と主張に対し、いやいやながらも認めていたからです。
さて、この文脈は
①イエスの名声が広くイスラエル全土に伝わったということです。
②またその噂は、旧約の預言者の出現か、復活したヨハネの再来かと思わせるような強烈なものだったのです。
③弟子たちから、その報告を聞いたとき、イエスの心は深く悲しみに満たされたこと。それはヨハネが殉教したように、次は自分が殉教するのだと言うことを意識したのでしょう。
さて、パウロは、私たちがイエス・キリストを証しするときに受ける迫害について語っています。
「一体、キリスト・イエスにあって、信心深く生きようとするものは、皆迫害を受ける。」(第二テモテ3: 12)
今日のタイトルは「宣教の代価」といたしましたが、キリスト教信仰の代償と言うべきでしょうか。
私たちの日常の信仰生活において、聖書に従って発言する時、必ず逆風を感じ、しばしば辛い経験をすることがあります。
言葉を替えて言えば、それは真理を語っているということを証明しているのです。
その逆風や圧力は、未信者の社会から来るとは限りません。
教会の中においてでさえも、真理は曲げられることがあるのです。
旧約聖書詩篇の記者であるダビデは、妻の父親であるサウル王から嫉妬され苦しみました。
しかし、自ら攻撃することなく、忍耐して、神の最善の采配を祈り求めていたのです。
「私の魂はあなたにより頼みます。滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰を私の避けどころとします」(詩篇57: 1)
イエス様の心を思いつつ、私たちの現実の信仰生活において、迫害を受ける時、どのように処すべきか学ばせていただきましょう。
祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰