「偽善とは」(マルコ7:1〜23、イザヤ29:13〜14)
マルコによる福音書第7章に入りますと、イエスの教えが述べられています。これまでの奇跡をなさる偉大な預言者という人物像から、鋭く真理を語る神の人の姿が表現されています。その教えの第一は学者パリサイ人の偽善についてでありました。
イエス・キリストの名声を聞いた。宗教家たちは、エルサレムからガリラヤ地方にまで来て、イエスと弟子たちの欠点を見つけようとしました。まず第一に見つけたのは、弟子たちが手を洗わずに食べる様子でした。
そこで、パリサイ人と律法学者達とは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか?」。(マルコ7:5)
それに対してイエスは言われた、
イザヤはあなた方偽善者についてこう書いてあるが、それは適切な預言である。「この民は、口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。」(マルコ7:6 イザヤ29: 13)
ここでイエスは、学者、パリサイ人たちの過ちについて3つの角度から語っています。
①食前の手洗いについて。(1〜8)
②コルバンの規則(神殿に捧げるものは、誰にも渡さないと言って、親の介護にまで手抜きしていること。9〜13)
③不浄な食べ物の問題(14〜23)
[偽善とは]
①仮面を被ること
②演技する役者
③自分の義を見せびらかして、しかし、その心は真実でない姿。
マタイによる福音書6章1節以下で、
「自分の義を、見られるために、人の前で行わないように、注意しなさい。」と言われました。
ここでは「献金」、「祈り」、「断食」についてイエスは語られました。人に見られないように隠れてしなさいと言われました。なぜなら神はその全てをご存知だからです。それが信仰だからです。
さて、ペンテコステ以後の弟子たちにとっては、パウロは、聖霊によって動機づけられ行動することが善であって、肉の思いで行動する事は、たとえ社会的に優れたことであっても、偽善であると教えられたのです。
この事は今日の教会生活においても大変重要なことです。クリスチャンの信仰生活において、「動機」の純粋性が求められています。この点を強調したのは、18世紀の宗教改革者、ジョン・ウェスレーでした。
ですから、パウロは
「私は命じる、御霊によって歩きなさい。」と言いました。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、妬み、泥酔、宴楽、及びそのたぐいである。」
(ガラテヤ5:16〜21)
また、御霊の法則について
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法は無い。」そして付け加えて「キリスト・イエスに属するものは、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:24)
2000年の歴史で、肉の働きで権力を握った人々は、教会の中であれ、社会一般であれ、問題を起こして挫折して行きました。
私たちの心の動機と行動が、神の御前で清くされるようにひたすら祈りましょう。そのためには、聖霊の働きに大いにより頼んで参りましょう。
小田 彰