「夜明けの四時頃」(マルコ 6:45〜56、ガラテヤ 2:19〜20)
イエスの初期の伝道は、ガリラヤ地方を中心になされました。ペテロを始めとする弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師たちでした。ですから、ガリラヤ湖という湖がどういうものであるか、風がどのように吹くか、嵐はいつ起こるのかなど、彼らは知っていたはずです。にもかかわらず、4章と6章において、嵐や逆風に悩む船の中で、不安と恐れのどん底に落ちている弟子たちの姿を見るのです。4章においては、イエスご自身がその船の中に乗っておられました。6章においては、船には乗っておられませんでした。この物語が私たちに何を語りかけているのでしょうか?
“そして、群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。夕方になった時、船は海の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをご覧になって、夜明けの4時ごろ海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。………しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ「しっかりするのだ。私である。恐れる事は無い」と言われた。そして彼らの船に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で非常に驚いた。“(マルコ6:46〜51)
イエスは陸におられ、弟子たちは船の中にいました。私たちクリスチャンは、礼拝も守り、聖書も読み、奉仕もし、信仰生活を続けておりますが、その魂の中にイエス様が不在の場合があります。漠然とした信仰を持っているようであって、その中心がイエス・キリストであることを忘れていることがあります。そのような時に「人生の逆風」に遭遇することがあるのです。いざと言う時に、祈る力もなく、頼りにする御言葉も思い出せない。教会の楽しい交わりや、友人たちも午前4時にはいません。不安と恐怖のために信仰者とは思えないような焦りを経験することがあります。
その時に、主は近づかれ、「しっかりしなさい。私ですよ。恐れる事はありません」と語りかけてくださいます。明け方の4時ごろイエス様にお会いできたら幸いですね。それは人生の逆境の夜中ですね。口語訳聖書では「四時ごろ」と書いていますが、新共訳聖書では「夜明け前に」と書かれています。
そしてイエスは船に乗り込んでくださいました。すなわち、私たちの人生と生活の中に、イエス様がお入りになり、お過ごしになるのです。
この物語にもう一つの意味があるのではないでしょうか。私が若い頃から折々に読んでいます「荒野の泉」(カウマン夫人著)の9月3日のところに胸に迫る言葉がありました。
「緊張した、追い立てられるような努力は、神が人にさせようとする業を完成しない。常に緊張なしに業を成したもう神、決して働きすぎることのない神のみが、その子らに割り当てた業を成したもうことができる。働きすぎてはならない。恵みに満ち溢れなさい。満ち溢れるために努力は不必要である。それは全能にして、無限なる完成の生涯で、キリストが、今日もまた常に私たちを招き入れてくださる生活である」
私はここから「主は静寂の中にいます」そして「委ね切った信仰は、常に完全な魂の平安をもたらす。慌ただしい、必死の努力の最中に神は共におられない。」と悟りました。その心境の時に、「イエスは私の魂のうちに満ちてくださいます。」
伝道者パウロは、信仰の真髄について次のように語りました。
「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2: 19.20)
マルコ6章の逆風の中の試練のメッセージは「私だよ。イエスを見よ」と語っています。昔の人たちは「臨在信仰」と言いました。
いかに多忙であっても、いかに肉体的に弱っている時であっても、魂の平安を守って、イエス様を心に迎えましょう。そこに恵みの奇跡があります。
祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰