2025.7.13

「五つのパン」(マルコ 6:30〜44、ヨハネ 6:26〜35)

 

2025年年頭に「祝福無限」と題して新年のメッセージをお送りしました。五つのパンが、イエスの御手に握られて祝福された時、その恵みが無限に広がったとお話ししました。

神の祝福は、小さなものも無限大のものに作り変えるという約束であり、信仰であります。

しかし、半年の間一章ずつ学びを進めて参りまして、ここから新しいメッセージを主よりいただきたいと思うのです。イエスは「飼う者のない羊のようなその有り様を深く哀れんで」(マルコ6:34)言葉をもって教えられ、今パンをもって彼らを慰めようとされました。

「パンを食べたものは、男5000人であった」(44節)と書かれていますから、相当な大群衆であった事は想像できます。ガリラヤ地方の人口からして、これは膨大な数字です。

 

イエスが発せられた3つの言葉に着目いたしましょう。

①「あなた方の手で、食物をやりなさい」。(37節)それは町のパン工場から持ってくるわけでもなく、有力なスポンサーの資金で買って、届けてもらうわけでもなく、弟子たち自身の力で人々を満たしなさいとの命令でした。

主は「私たち」のできる方法で、人々への福祉をなすように命じられます。「誰か」ではなく、「私たち自身の信仰と意思」が問われています。

②「パンは幾つあるか。見てきなさい」(38節)私たちの持てるもの、能力、知恵、財力、人脈、経験など、あらゆるものを数えることをお求めになります。

しかし、これは膨大な必要に対してどれほどの意味があるでしょうか。一言で言えば「己の無力を知れ」と言われているのではないでしょうか。

③「それをここに持って来なさい」(マタイ14:18)それはヨハネ福音書によれば「ここに、大麦のパン五つと、魚ニ匹とを持っている子供がいます。」(ヨハネ6:9)確かに五つのパンはあるのですが、子供のものなのです。まさにそのわずかなものを「持ってきなさい」と言われました。

 

この第三の御言葉から今日のメッセージをいただきましょう。弟子たちは、何の役にも立たないと思ったわずかなものですが、それも子供の手の中にあったものですが、それをあなた方の手から手放して、イエスの御手の中に移しなさいとのご命令でした。私たちの持てるものはわずかですが、自分で握り締めて手放そうとしないのです。

もっと言うならば、自分の能力や自分の体験や、あるいは今直面している不幸な出来事にしても、自分で考え悩むものです。そのすべてをイエスに差し出しなさいと言われます。それは「きよめ」「聖別」「献身」の問題です。

わずか五つのパンがイエスの手に移った瞬間「天よりのパン」「命のパン」に変わるのです。

 

イエスが荒野でサタンに試みられたとき言われました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」。(マタイ4:4、申命記8:3)

人間は食物が足りていれば、満足するものではありません。イエス様は当然それはご承知です。神の言葉によって初めて「人」となるのです。

この群衆は「パンの奇跡」を通して「天よりの恵」を経験しました。群衆は、与えられたパンを取って食べたのです。それは大変幸いな経験でした。

 

イエスは最後の晩餐においてパンを取り祝福してこれをさき、弟子たちに言われました。「取れ、これは私のからだである」。(マルコ14:22)

この5000人の給食の奇跡は、後の教会の聖餐式の原型となっています。

 

私たちの前には不可能と思われる仕事が山積しています。そして、私たちの能力は極めてわずかで限界があります。無力です。しかし、主は、目の前にある祝福のパンを「取れ」と言われます。それは信仰が試されているのです。「自分の無力を見ず、イエスを見よ」と語られているのです。

あなたは、信仰をもって神の約束を握りますか?信じて行動しますか?もしそうするなら無限大の祝福を見ることができるでしょう。

「私が命のパンである。私に来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものは決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

 

今週も御言葉によって励まされ行動されますようにお祈りいたします。

小田彰