2025.6.8

「悪霊と聖霊」(マルコ 5:1〜20、使徒行伝 2:1〜4)

 

今年6月8日はペンテコステ礼拝です。聖霊降臨日であると同時に教会の誕生日です。それは福音の世界宣教の初日と言うことができます。

ペンテコステは「50日目の祭」ですが、イスラエルの3大祭の一つで、「刈り入れの祭」「七週の祭」と言われる収穫感謝祭です。それは過越の祭の2日目から7週後となります。クリスチャンにとっては、キリストの復活から50日目に、弟子たちの上に聖霊が降臨した日であります。またイエスのオリブ山の昇天から10日目です。

 

その日、イエスに宿っていた聖霊が、弟子たちと信仰を同じくするすべての人に降臨しました。同様に信じる私たちにも聖霊が下るのです。

「聖霊によらなければ、イエスは主であるということができない。」(第一コリント12:3)とありますが、私たちがイエスを救い主と告白することができるのは聖霊の働きです。しかし、信仰告白した後も、必ずしもキリストの御心を行っているわけではありません。聖霊が心の内に住む(内住)の経験が必要です。それが聖霊経験と言うものですね。すなわち、

①聖霊による信仰告白(洗礼)と

②聖霊の内住によるキリスト化された人格。

この二面性を持って聖霊を待ち望むべきであります。

18世紀英国最大の宗教改革者でありましたジョンウェスレーは、「第二の転機」①を強調しました。

 

イエスの弟子たちは、イエスを知り、共に生活し、十字架と復活を目撃したにもかかわらず、まだ臆病で消極的な隠れて礼拝している人々でした。しかし、ペンテコステの出来事以後、大胆で積極的な宣教者に変わり、教会が形成され、福音は全世界に宣べ伝えられ、今日に至っているのです。

今日この聖霊体験については、いくつもの教派ができるほどの大きな議論となっています。しかし聖霊が働かなければ福音が伝えられる事はないと言う事だけは確かです。

 

さて、今日のテキストのマルコ福音書5章には、「汚れた霊に憑かれた人」がいかにして救われたか?が記録されています。彼は

①ゲラサの墓場に住んでいました

②鎖をもってしても、抑えつける事ができないコントロールを失った人でした。

③夜昼眠ることなく叫び続ける凶暴

な男でした。

 

イエスが「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われた時、悪霊たちは2000頭の豚の中に入り、海に落ちて死んだと書かれています。この物語で、イエスはこの人物の評価について全く触れていません。彼の内に住む悪霊に解放を命じたのです。

「そして、イエスのところに来て、悪霊に疲れたものが着物を着て、正気になって座っており、それがレギオンを宿していたものであるのを見て、人々は恐れた」(マルコ5:8.15)

 

さて、ペンテコステの聖霊を語る時、同時に悪霊の攻撃についても見ておかなければなりませんね。「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)はライトハウスの標語ですが、神が光であるなら、この世は悪魔に支配された闇であります。闇の力は私たちの信仰を無きものにしようとします。心を乱し、分裂を生み出し、戦争に至るほどの争いを引き起こすものです。今日の精神医学においても、解明できない人々の心の不安と乱れがいかに社会を苦しめているかということを思う時、2000年前と全く変わらない悪霊の働きを見逃すことはできません。

ですから、形式的でなく、惰性的でなく、聖霊に満たされて歩む信仰が求められています。

 

「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、諸々の支配と権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

「ただ、聖霊があなた方に下る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダとサマリアの全土、さらに日の果てまで、私の証人となるであろう。」(使徒行伝1:8)

 

神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰