「福音宣教の限界」(マルコ 6:1〜13、使徒行伝 16:25〜34)
4章後半から5章にかけて、自然界も悪霊も病も、死でさえも、支配される力強い神の御子イエスの姿が語られました。しかし、6章のふるさとナザレ伝道では、家族近親者ゆえに、あまりにも長く、幼い頃からのことを知っているが故に、町の人々は、神の器であるイエスを信仰の目をもって見ることができませんでした。そして、奇跡も行うことができなかったのです。イエスの伝道における限界が見えています。信仰がなければ神は働かれないということなのですね。
イエスがナザレの会堂で教え始められたとき、人々はその言葉の力に驚きました。
「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力ある業がその手で行われているのはどうしてか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。また、その姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」。
(マルコ6:2、3)
この故郷の人々、また親戚たちの驚きはよくわかりますね。自分たちと同じ育ちであったのに、なぜこんなに力強い働きをしているのか、一緒に育ったマリヤの息子たち、娘たちは今も近親者ではないか。ここにイエスの弟たち4人の名前が上がっていますが、マルコの批判の気持ちが入っているかもしれませんね。彼は今ローマで書いています。エルサレム教会は全教会の中心であり、イエスの弟ヤコブはその中で大きな力を持っていますが、その兄弟たちも、かつてはイエスの働きを制限するような不信仰な人々ではなかったか。
そういう意味で家族の不信仰を書いているようにも思われます。
イエスは言われた「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われない事は無い」。そして、そこでは、力ある業を1つもすることができず、ただ少数の病人に手を置いて癒されただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。(マルコ6:4〜6)
この記事から、私たちは何を学ぶべきでしょうか?
①イエスでさえも家族近親者伝道は困難であったこと。
②私たちも、入信において、伝道において、献身において、その困難を乗り越えていかねばなりません。
③家族、友人、近親者から拒絶され、批判され、無視され、反対される時、初めて「神の選びと導き」を知ることができます。それは信仰の第一歩です。
イエス様は公の伝道を開始されてから、今回でニ度ふるさとナザレを訪問しましたが、この後十字架におかかりになるまで二度と行く事はありませんでした。そして、故郷には信仰の輝きが見られないことを悲しまれたことでしょう。
5章においては、ヤイロの娘をよみがえらせ、長血を患った女性にはその信仰に目を輝かせ、感動されたイエスも、故郷の不信仰の前では無力であったのです。主は私たちの際立った信仰を求めておられるのです。本当の信仰者は誰か、「誰が触ったのか」と言われたように、神は私たちの愛と献身と信仰を待ち望んでおられるのです。
しかし、ペンテコステの後、教会の発展は多くの家族、友人を通しての伝道によって拡大していきました。
「主、イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。(使徒行伝 16:31)
改めて、家族伝道、近親者伝道、友人伝道のために祈って参りましょう。
祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰