「少女よ起きよ」(マルコ 5:21〜43、ヨエル 2:28〜32)
先週、会堂司ヤイロの娘の癒しのために、イエス様は人々と共に彼の家に向かっていました。ところが12年間長血を患った女がイエスに取りすがったために、長時間が浪費されてしまったように見えるのです。その社会的地位も経済力も美貌も女としてのあらゆる良き物を失った女性に、イエスは癒しの御業をなさいました。
それはヤイロの目からすると、「なんという無駄であり、失礼なことか」と見えたに違いありません。ヤイロの召使い達から見ると、「大切な社会的地位のあるヤイロ様のお嬢さんの癒しを優先すべきであるのに、なんでこの浮浪者のような貧しい女に無駄な時間を使うのか」という思いがあったに違いありません。
そうしているうちに会堂司の家から人々が来て言った、「あなたの娘は亡くなりました。この上先生を煩わすには及びますまい」(マルコ5:35)
イエス様が余計なことをしているうちに、とうとうお嬢様は死んでしまったのです。ですから、来ていただかなくて結構ですと言うわけです。
ここからが本日学ばなければならない課題です。
①イエスの到着が遅れたために娘は死んだ。だからイエスはもっと早く来るべきであったか?
②この大事な往診を、たとえ善意ではあっても、長血の女のために浪費したのはイエスの間違いであるか?
③ヤイロの娘のために手を置いて祈ってあげるという行為が愛の業であるか?それとも彼女を生かすことが愛の業であるか?
このような常識的な疑問に、イエスは率直に答えられました。
「恐れる事は無い。ただ信じなさい」「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」
そして子供の手をとって、
「タリタ・クミ」それは
「少女よ。さあ、起きなさい」と言われた。すると少女はすぐに起き上がって歩き出した。(マルコ5:36〜42)
この記録から学ぶべきことが少なくても3つあります。
①イエスはヤイロの懇願に対して即座に応答されましたが、それは親切を示すためではなく、彼らの信仰を復興させようとするためでした。(リバイバルの預言)彼はユダヤ教の宗教的指導者でしたが、信じることについては、幼稚だったのです。私たちの信仰も「タリタ・クミ」と声をかけていただいて、奮い立たせていただきたいのです。
②「遅延に対する訓練」。かつて「人生の訓練」というシリーズをお話ししたことがありますが、祈りが聞かれない時、結果がなかなか見えない時、長く忍耐を強いられる時、いつまで待つべきかわからないほど悩む時、神の素晴らしい御業が遅延しているのです。そこで私たちの信仰が試され、育てられるのです。
「神にとっては、決して遅すぎる事は無い」
③神は試練を通して信仰者を育てられます。イエス様はわざわざヤイロの娘の訪問時間を遅らせたかのように見える時、彼らの信仰が試されていることに気がつかなければなりませんでした。
「神はいかなる悲惨な出来事をも勝利に変えることがおできになります。そこでは遅すぎる事はありません」
「私たちは不可能を喜ばれる神を持っている。」それゆえ、私たちには何事にも不可能な事は無い。
(アンドリュー・マーレー)
私たちは常識的なキリスト教信仰者ではなく、非常識なまでに大胆に神を信じる信仰者とならせていただきたいと思います。それはペンテコステの聖霊の働きです。
素晴らしい1週間でありますように
祝福をお祈りいたします。
小田 彰