「御言葉の種まき」(マルコ4:1〜20、イザヤ40:6〜8)
イエスは譬えで多くのことを教えられたが、その教えの中で彼らにこう言われた、「聞きなさい。種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに道端に落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。他の種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、塞いでしまったので、実を結ばなかった。他の種は良い地に落ちた。そして生えて、育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった」。(マルコ4:2〜8)
これは日曜学校の子供たちも知っている種まきの譬え話です。
①まず「土壌」の事について書いてありますね。
道端→サタンが御言葉を奪っていきました。
石地→御言葉を聞いて喜びますが、困難や迫害ですぐに挫折してしまいました。
いばらの中→世の心遣い、富の誘惑、いろいろな欲が御言葉を塞いで結実を阻みました。
これらの3つの異なる土壌は、福音が根付いて結実しなかった理由です。
マルコによる福音書は、マルコ自身が書いた部分と、後世の教会が書き加えた部分があると言われています。特にネロ皇帝の迫害時代におけるクリスチャンたちが信仰から離れていく理由を列記していると言われています。イエス様がどこまで語られたか分かりませんが、神の言葉が根付き、成長し、結実するという事は、実に大きな戦いだということを暗示したのでしょう。
そして
良い地→よく耕され、御言葉の種を受容し、成長し、結実した土地です。ここでは先の3つの脱落者たちに比べて、ほとんどの種が良い地にまかれたのだと言っているようです。
②「種」とはなんでしょう?
それは神の御言葉です。純粋な真理の言葉であって、いつの時代にも過ちを正し、生命を与えるものです。
まき方が悪くても、まいた土地が悪くても、この「種」は永遠の真理です。
「草は枯れ、花はしぼむ、しかし、我々の神の言葉は、とこしえに変わることがない。」(イザヤ40:8)
③「種まく人」とは?
それは神ご自身であり、イエス様であり、今日の伝道者です。そしてその種まきの力は聖霊の働きです。
さて今、「伝道とは何か」と言うテーマが議論されています。ビリーグラハム伝道のような大型の伝道集会もありました。文書伝道、ラジオ、テレビ伝道、今日のインターネット伝道、もちろん地上の教会も、この伝道のツールとして建てられました。しかしこれらの事は皆、伝道の方法論です。
イエス様はもっと深く語っておられます。神の御言葉が心に根付き、あらゆる迫害やこの世の妨げを避けて成長し、人に自然に感化を与え、御言葉を結実させていく働きは、どのようにして実現するのかが問われています。
私たち自身の中にまかれた神の御言葉を、いかにはぐくみ、自らの人生をもって成長を証し、他者に影響を与えていくことができるかがこのメッセージではないでしょうか。
私も、伝道者の一人として、この御言葉の重さを深く味わっているものです。祈りなくしては、種まきはできませんね。
「涙をもって種まくものは、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行くものは、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5、6)
祈りつつ
小田 彰