「ナルドの香油」(マルコ14:1〜11、マルコ12:41〜44)
ただいまレント(受難節)の半ばまで参りましたが、来週は棕櫚の日曜日、そして20日はイースターとなります。十字架を目前にしたイエスの心境は重苦しいものではなかったかと想像します。しかし、そこに一輪の百合が咲いたかのように、ひとりの女のナルドの香油をイエスに注ぐという出来事がありました。それは主のお心を、どれほど慰め励ましたことでしょうか。
「イエスがベタニアで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、一人の女が、非常に高価で、純粋なナルドの香油が入れてある石膏の壷を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3)
この出来事の直前には、祭司長律法学者たちがイエスを殺そうと計っていた記事が書かれています(14:1、2)、 また、この直後には、イスカリオテのユダが祭司長たちにイエスを売り渡そうとしていた記事が載っています。マルコの意図したことかわかりませんが、イエスを取り巻く醜い男たちの闘争の狭間に、このナルドの香油を捧げた女の美しい信仰の記事が書かれているのです。
人々は300デナリで売って貧しい人たちに施したら良いのではないかと語ったようですが、それは人間の判断であり、多分イスカリオテのユダの意見ではなかっただろうかと推察しています。
イエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。この女はできる限りのことをしたのだ。すなわち、私の体に油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ 伝えられるところでは、この女のしたことも記念として語られるであろう」。(マルコ14:6-9)
ここで大切な事は「この女はできる限りのことをしたのだ」と主が言われたことですね。同様の記事がルカによる福音書7章にも出て参ります。そこには「罪の女」と言われる女性が関わっていました。ヨハネによる福音書12章では、甦えらされたラザロの妹マリヤが捧げています。私たちが奉仕や献金において示す信仰上の愛は、周りの人々と競争をしたり、張り合ったりするものではありません。無意識の無私の行動でなければなりません。聖書の中ではしばしば女性が良い模範を示していますね。
さて、シスター渡辺和子は、良い言葉を残してくださいました。
「目に見えない大切なものが、この世の中にある。愛と呼ばれるものは、目に見えなくても伝わります。目に見えなくても働きます。」
今から21年前の6月の事でしたが、私が新幹線で大阪に向かっていた時、「人に良い感化を与える奉仕とは何か」について考えておりました。その時のメモに次のように書いてあります。
「信仰の感化力は、その人がどれほど無私の愛をもって、神と人々に仕えたかに比例する。」
まさに、この女性の行為は、それが無私の行為であったが故に、2000年たって、今日も世界中で語り継がれているのです。
今週も神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰