「不信仰から信仰へ」(マルコ16:9〜20、ヨハネ20:11〜18)
復活信仰は、疑いと不信仰によって打ち消されようとしてきましたが、決して消される事はありませんでした。まず弟子たちの不信仰、当時のユダヤ社会とローマ帝国下における不信仰、そして2000年の歴史を通して、科学的物の考え方からして認められない出来事でありました。にもかかわらず、この信仰の波動は全世界に広がり、今日も私たちに力を与えているのです。
マルコによる福音書の記録には「信じなかった」という言葉が繰り返されています。
「週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤにご自身を現された。マリヤはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところに行って、それを知らせた。彼らはイエスが生きておられることと、彼女にご自身を現さ
れたこととを聞いたが信じなかった。」(マルコ16:9〜11)
12〜13節、二人の人がエマオ向かって旅して、復活の主に出会ったことを話しましたが「彼らはその話を信じなかった」。
14節では、イエスが11弟子の食卓に現れたが、「彼らはよみがえられたイエスを見た人々の言うことを信じなかった」と書かれています。
復活の出来事に一番間近に遭遇した人々の中に信仰はなかったのです。
しかし、なぜ不信仰の弟子たちが、その信仰のために命まで投げ出して伝道するようになったのか。イエスは「信じないものにならないで信じるものになりなさい」と言われましたが、なかなか言われた通りにできるものではありません。
マグダラのマリヤの場合はどうだったでしょうか?7つの悪霊に捉えられていたマリヤがイエスに出会った時、全く解放され、清い女性と変えられました。ですから、彼女のイエスに対する愛情は非常なものがあったでしょう。その愛は信頼となり、献身的な奉仕となりました。そして信仰へと変化していくのです。
しかし、彼女は復活されたイエスを信じることはできませんでした。ヨハネの福音書20章では、墓の前で泣いていたと書かれています。そして墓の番人かと思った人に、「もしあなたがあの方を移したのならどこへ置いたかお知らせ下さい」と言っています。実はそれがイエスだったのです。という事は、彼女も全く信じてなかったのですね。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤは振り返って、ヘブル語で、「ラボニ」と言った。それは先生と言う意味である。イエスは彼女に言われた。「私に触ってはいけない。」(ヨハネ20:15〜17)
この出来事から彼女は信仰を学んだのです。いや、信仰が身に付いたと言うのでしょうか?
愛情→信頼→奉仕・献身→(変身して)信仰へ
○信仰とは、信仰を持っている人の感化を受けて、次第に成長していくものなのです。
最近しばしば引用させていただいている渡辺和子先生の言葉があります。
「愛されて、私たちは愛すべき人に変身していく。やがて、愛されるに値するものへと成長していくのだ。」
この変身こそ信仰の成長です。
その意味で教会は信仰者の集まりであり、常に信仰のハーモニーが響き渡っているところであるべきです。その環境の中で次第に私たちは信仰の美しい旋律に身を寄せていくものなのです。次第に信じられるように変えられていくと言ったら良いでしょう。
このことについて、パウロは素晴らしい言葉を残しています。
「私たちは皆…栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく。これは聖なる主の働きによるのである」(第二コリント3:18)
信じられないものが、徐々に信じられるようになり、ついには主と同じ姿にまで変えられていくのです。
主イエス・キリストとは「信仰の本質」なのです。
私も復活ばかりでなく、聖書に書かれているあらゆる奇跡も、また記録も受け入れることはできませんでした。しかし、ある時からそれら全てが受け入れられるばかりでなく、信じて宣べ伝えることに変貌していったのです。不信仰の私が信仰に生きる私に変身したのです。
御聖霊が皆様の心の姿を変身させ、復活の主、イエス・キリストに似たものとしてくださるようにお祈りいたします。
小田 彰