「ゲッセマネで」(マルコ 14:27〜50、ローマ 7:15〜25)
13日は棕櫚の日曜日(パームサンデー)で、イエスがエルサレムに入城された日です。群衆は彼を政治的リーダーとして、また救世主として「ホザナ、ホザナ」と歓呼の声で迎えました。しかし木曜日の夜には、その声は「十字架につけよ。十字架につけよ。」との断罪の言葉に変わりました。そして金曜日の朝、イエスはゴルゴタの丘の十字架に釘付けられたのです。まさにメシアとして来られたイエスはこの日のために誕生されたのです。
マルコによる福音書は、この尊いイエスの十字架への道の傍に常に共にいた弟子たちの裏切りについて、克明に記しています。最後の晩餐の後、弟子たちを連れてケデロンの谷を下り、オリーブ山にいって祈られた時、特にペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人をすぐそばに置いて祈られました。祈りの応援を頼まれたのに、彼らは眠ってしまったのです。
まもなく、武器を持ってイエスを捕えに来た祭司長達の群衆は、イエスを罪人として捕縛しました。弟子のユダは、接吻をもってイエスを裏切りました。そして、弟子たちは、皆逃げ去ったのです。
[ペテロを始めとする弟子たちの言葉]
するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなのものがつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)
ペテロは力を込めて言った、「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(14:31)
[それに対するイエスの言葉]
それから(イエスが)来てご覧になると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(14:37、38)
また(イエスが)来てごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして彼らはどうお答えして良いかわからなかった。(14:40)
☆弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。(14:50)
○今年の受難週に、弟子たちの裏切りを通して「人間の実相」について考えさせられています。
伝道者パウロは、この点について、極めて深く掘り下げています。
「なぜなら、私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。そこでこのことをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。なぜなら、善をしようとする意思は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。」(ローマ7:15.17.18.19)
優しいイエス様は「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と暖かく諭してくださいました。
しかしパウロは善を行う力がない。その本質は罪であると断言しました。
今年の受難週に、私たちの肉の弱さ、無力さ、そして自己中心性について深く思いをいたし、へりくだって神の哀れみを求めたいと思うのです。
信仰とは神中心に生きることであり、罪とは自己中心に生きることであります。信仰とは神を優先的に第一とすることであり、罪とは自分を優先することであります。
しかし、このペテロを始めとする弟子たちが、復活の主に出会った時、そしてペンテコステの聖霊を受けた時、自分を捨て、神を第一とする人々に変貌しました。ここに福音の真理がありますね。
☆ですから、ゲッセマネで祈られた、イエスの言葉が実に深く私たちに迫ってくるのではないでしょうか。
「どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください」(マルコ14:36)
この祈りに、私たちが心から和すことができるならば、完全な心の平安を得、また周囲の人々を救いに導くことができるのです。
神の祝福が豊かにありますように祈ります。
小田 彰