「お言葉通りに」(ルカ1:26〜56、サムエル記 上 1:9〜20)
アドベント第3主日を迎えました。
今日は、マリヤに対する天使ガブリエルの「受胎告知」から、キリストのご降誕を迎える心の備えをさせていただきましょう。
すると、み使いが言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい。………」それに対して、マリヤは、「どうして、そんなことがあり得ましょうか。私にはまだ夫がありませんのに」と反論します。御使いは、「神には何でもできない事はありません」と言いました。
☆そこでマリヤが言った、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1:28〜38)
○さて、ガブリエルの「受胎告知」に対してマリヤは、抵抗しているように見えますが、最後に信仰を持って受け入れたことにおいて、イエスの母として選ばれた一女性の素晴らしい信仰がここに記録されています。
①キリスト降誕は、何の相談もなく、神の一方的な業でした。
②マリヤの常識では受け入れがたいものでした。(石打ちの刑かもしれない)
③神が私たちに語られる言葉は、必ずしも喜ばしいものとは限りません。また一般常識から外れているものがあります。
④神に従うことが、自分の常識で判断するよりもより良いと言う確信が問われます。
⑤そこに私たちの信仰を導く聖霊の働きがあるのです。
「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と言う事は大変大きなリスクが伴う重い判断ですね。クリスマスシーズンですから、「私たちもマリヤのように信じて従いましょう」などと簡単に言うべきではありませんし、また言うことはできません。
しかし、私たちの信仰生活は、神の御言葉に従うことの連続によって確立されていくのです。
神の御言葉に従うとはどういうことでしょうか?
①聖書のみ言葉に従うこと。
②福音的価値基準に従うこと。
③聖霊のインスピレーションによって、断片的な御言葉が語られたとき、それに従うこと。
日々の聖書研究と祈りの中で、神の御言葉に従う感性が鋭くされますように祈ります。
ここで神の御言葉に従うとは、必ずしも喜ばしいことではありません。良心的罪の呵責が示されるかもしれません。傲慢を捨てて謙遜にならなければならないかもしれません。敵対する人と和解しなければならないかもしれません。現在の安定した生活を捨てて、信仰によって生きる献身の道を進まなければならないかもしれません。
マリヤが「恵まれた女よ」と言われたとき、単純に幸せが約束されたというようなことではなかったはずです。
「大きな恵みを受けたものは、また
大きな試練を担うこととなる」のです。
イエスの母、マリヤは、息子が十字架上で死を迎えるときに、その足元で見上げることになります。多分最も悲しく辛い経験でしょう。しかし、それが神の恵みの計画なのです。
今、神様はその御言葉を通して、あなたに何を語っておられるでしょうか?信仰を持ってそれに従うことができるならば幸いです。当面それは辛いことであったとしても、後に深く感謝することができるでしょう。
「今日、御声を聞いたなら、あなた方の心を硬くなにしてはいけない。」(ヘブル3:15)
御言葉に従うことによっておける祝福を体験されますようにお祈りいたします。
小田 彰