「信仰が行いと共に働き」(ヤコブ 2:14〜26、マタイ 1:18〜25)
アドベント第一主日を迎えました。キリスト降誕の輝かしい光に向かって、ベールが一枚一枚剥がされていくことを意味しています。
今日はイエスの父となったヨセフの信仰と行動について思いめぐらしてみましょう。
マリヤと婚約したヨセフは、常識的な敬虔なユダヤ教徒でした。ですから、マリヤが受胎したことを聞いたときに、どれほど驚き困惑したかという事は、誰でも想像のできることです。
ヨセフが取り得る行動は、
①証人の前で、離縁状をマリヤに手渡すこと。あるいは、
②法廷に訴えて白黒を決着することでした。
彼が悩んでいたときに、夢の中で主の使いが語ったと言うのです。
マリヤは
①聖霊によって受胎したこと
②男の子の誕生であり、その名をイエスと名付けるべきこと
③その赤子は、己の民をその諸々の罪から救うものとなること。
それを聞いて、ヨセフは神のご計画に従うことを決意します。
「ヨセフは眠りから覚めた後に、主の使いが命じた通りに、マリヤを妻に迎えた。」(マタイ1:24)と書かれています。そして2人はベツレヘムへの長い旅行に旅立ちます。
さて、これはクリスマスが並並ならぬ事件であったことを意味しています。ヨセフは、人々の冷淡な言葉や眼差しを受けながらも、ひたすら神の密かな語りかけに従いました。それが彼の信仰であったのです。
そこには社会的常識か、それとも神の言葉に服従すべきかという内なる葛藤がありました。どれほどの沈黙の祈りがあったでしょうか。しかし彼は神の言葉に従ったのです。その結果、世界の救い主が誕生します。
本日のもう一つのテキストは、イエスの弟と思われるヤコブの言葉です。
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)
教会の中で、地位の高い人が重んぜられ、貧しいものが軽んぜられるという出来事を見ました。信仰があると思う人が弱いものに手を差し伸べることができないならば、その信仰は死んだものであると言っているのです。
[信仰と行い]
①信仰の行いには犠牲が伴う。
②信仰(御言葉の実践)には苦悩があり、神信頼が問われます。
祈りぬいて、従うという道が開かれたら幸いです。
ヨセフは、苦悩と祈りの中で、信仰により神に従う道を進みました。
私たちも、お互いの人生のどこかでいつか、決定的に神に従うか常識に従うかという内心の戦いがあるかもしれません。
その時神の言葉を第一とする人は幸いです。
祝福が豊かにありますようにお祈りしております。
小田 彰