2025.11.16

「御言を行う人」(ヤコブ1:19〜27、ルカ6:46〜49)

 

さて、「クリスマスを待ち望む心」をテーマにヤコブの手紙を学び始めました。今日の御言葉は、

「御言を行う人になりなさい。己を欺いて、ただ聞くだけのものとなってはいけない。」(ヤコブ1:22)

 

御言を行うとはどういう意味でしょうか?

①神に対しては信仰の行為です。不可能に対して信じて進むことでもあり、「神にはできない事は無い」という証ですね。また聖書の言葉に忠実に従うことでもあります。

②人に対しては愛の行為ですね。それは実践的に愛するということであり、またしばしば赦すという行為でもあります。

御言を行うとは、イエス・キリストのように生きることであって、大変重大なテーマですね。

 

御言葉とは何かと問われるならば、

①イエス・キリストご自身

②書かれた言葉としての聖書

③祈りの中で、個人的に心に語りかけられ、信仰の転機となる御言(これはしばしば試練や悩みの中で苦闘しているときに与えられる聖書の言葉です)

 

さて、ヤコブは信仰の行為、実行力を求めています。しかし、それを阻むものがあります。それは試練であり誘惑です。また人格的未熟が前進を妨げます。

「人は全て、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである。人の怒りは、神の業を全うするものではないからである。だから、すべての汚れや、甚だしい悪を捨て去って、心に植え付けられている御言を素直に受け入れなさい。御言には、あなたがたの魂を救う力がある。」(ヤコブ1:19〜21)

 

イエスは御言を行う人を岩の上に家を建てた人、聞くだけで行わない人を砂の上に建てた人と言っています。

「しかし、聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流が、その家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」(ルカ6:46〜49、マタイ7:24〜27)

 

ヤコブがこのように「御言を行う人」を求めた理由は、教会の中に知識や経験が豊富で、信仰の指導者と言われる人であっても、現実に悩んでいる人、助けを必要としている人に同情せず、手を差し伸べることもしない、愛のない人々に対して述べていると思われます。

 

それについてヨハネも語っています。信仰があると言って、人を助けなくて良いのか?

「主は私たちのために命を捨ててくださった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、私たちもまた兄弟のために命を捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、哀れみの心を閉じるものには、どうして神の愛が彼の内にあろうか。子たちよ。私たちは言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一の手紙3:16〜18)

 

さて、クリスマスは、神様がこの一歩踏み出す「愛」を惜しみなくくださった出来事です。人間が犯した罪を赦すためには、一枚の「赦す」という処方箋でもよかったでしょう。しかし神は一歩踏み出して、御言である独り子イエスを幼な子の形で、私たちにプレゼントしてくださいました。私たちがする奉仕や支援などは、政治家がする業や福祉事業ではありません。物質や金銭のやり取りではなく、私たちと共にいて下さる神の愛の業としてすることです。教会の中における人間関係においても、この神の愛の御手の代行者である意識が求められます。

 

この信仰の行為は、神の愛のぬくもりと絶対的力を伝えるものです。東方の博士たちがイエスに宝物を捧げたことから、クリスマスプレゼントは由来しています。人に対しては、心のこもったプレゼント、神に対しては、信仰による誠実な礼拝を捧げて参りましょう。

 

今週も神の言葉があなたの心に新たな光を与えてくださいますようにお祈りいたします。

小田 彰