2025.10.5

「幼な子らをみもとに」(マルコ 10:1〜16、ローマ 8:26〜30)

 

「誰でも幼な子のように神の国を受け入れるものでなければ、そこにはいる事は決してできない」(マルコ10:15) 幼な子に関するメッセージはマルコによる福音書に2回出て参ります。なぜイエスは幼な子を近くに寄せ、抱きかかえて祝福されたのでしょうか。

①マルコ9:37のメッセージの直前に、弟子たちは「誰が一番偉いか」というレベルの低い議論をしていました。お互いが競争し、比較し合うような弟子たちに対して、「幼な子のように謙遜にならなければ」と語られたのです。

②マルコ10:14ではより現実的な問題が背景にありますね。1〜12節では「離婚問題」が語られています。そこには駆け引きがあります。さらに17〜22節では、富める若者が「永遠の命を受けるためには、何をしたら良いのでしょうか」と訪ねてきました。彼には豊かさが問題となっていたのです。持ち物を売り払って、貧しい人々に施し、私に従って来なさいと言われた時、悲しげに去っていってしまったのです。彼はもしかしたら「天国の条件である永遠の命」をお金で買い取ろうとしたのかもしれません。この2つの議論の間に「幼な子のようにならなければ」というメッセージが語られています。

ここでは、無条件にイエスの胸元に寄り添ってくる子供たちの素直さと、信頼の心を主は最も大切なこととご覧になったのでしょう。

 

さて、イエスの思いは何だったのかについて思いめぐらしてみましょう。聖書の疑問は聖書をもって解き明かすべしと昔から言われています。

 

「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと、共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている。」(ローマ8:28)

 

このパウロの言葉の中に鍵があると思われます。「神を愛する者」と「ご計画に従って召されたもの」の二つの条件が幼な子の性質と関係していると思います。ただいまYouTubeのチャペルメッセージでギュスターブドレの絵を紹介しています。子供たちは皆、イエス様を愛して、無意識に、無条件にすがりついています。そこにはかけ引きも打算もありません。

①神を愛し慕い求める者

②神の喜びたもう性質を持っている者。

そこでは信仰とは、熱心とか、努力とか、献金とか、伝道活動とか、信心深さとかとは全く異なるものです。

パウロはさらに述べています、

「神は、あらかじめ知っておられる者たちを、さらに御子の形に似たものとしようとして、あらかじめ定めてくださった。」(ローマ8:29)

 

「御子の形に似たもの」こそ私たちに求められている性質なのでしょう。そこでイエスは、

 

それを見て「憤り」彼らに言われた、

「幼な子を私のところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」と言われたのです。

 

シスター渡辺和子先生の言葉にはっとさせられました。

「どんなに肉体的に近づいても、どんなに精神的に全てを分かち合っていても、なおかつ、2人は1人でなくて、2人でしかない、ということに気づいたとき、新しい「愛」の姿が、苦しみの中に生まれてくる。」

 

本来、神様と私たちは一体であるべきなのですが、どこまで行っても距離があります。ですから、イエス様は十字架にかかって執りなしてくださったのです。人間同士も互いにその距離を埋めるためには「新しい愛」を学ばなければなりません。それは十字架の苦しみです。

 

しかし、幼な子たちは、何の説明も学習もなく、イェスの胸元に飛び込むことができます。ですから、イエス様は「幼な子のようにならなければ」と言われたのですね。そのような信仰に対して、神は「万事を益となるようにしてくださる」というのですね。

神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰