「バルテマイの信仰」(マルコ 10:46〜52、エレミヤ 29:10〜14)
今年はマルコによる福音書を学んで参りましたが、11章に入りますと、イエスのエルサレム入城と最後の1週間、すなわち受難週に入るのです。そこで私たちの学びは今日の10章52節で一旦終わり、クリスマスの準備に入ります。エルサレムにおける十字架の死を前にして、その手前15キロほどのところにあるエリコという町をイエス一行は過ぎていきました。
ルカによる福音書19章に、この町の取税人のかしらザアカイの救いの出来事があります。最も富めるものが最も孤独であった。その人にイエスの愛が注がれました。エリコの人々の話題は、ザアカイが変貌した出来事で持ちきりでした。そのニュースは周辺にも伝えられたことでしょう。ザアカイの家に一同が泊まったとありますが、多分数日に及んだことでしょう。
さて、イエスと一行が町を出ようとした時、一人の目の不自由な乞食が待っていたのです。その名はバルテマイ、目は不自由であっても、心の目は開いていました。あのナザレのイエスが救い主(メシア)であること、ザアカイをも変えたこと、そして祈りに答えて目を開いてくださることを確信していました。彼は、イエスが町の門を出てくるその時を待ちわびていたのです。
ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫びだした。(マルコ10:47)
人々が制止しても、さらに激しく叫び続けたのです。
イエスは立ち止まって「彼を呼べ」と命じられた。そこで人々はその盲人を呼んでいった、「喜べ、立て、お前を呼んでおられる」。そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊り上がって、イエスのもとに来た。イエスは彼に向かって言われた、「私に何をして欲しいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。(マルコ10:49-51)
バルテマイはここで三度、イエスに叫び求めています。しかしこの熱心の回数ではなくて、彼の絶対的な信仰をイエスは認められました。
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると、彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マルコ10:52)
○さて、ここで「祈りと信仰」について考えてみましょう。祈りの熱心さや回数や厳しい修行によって、神は答えてくださるのではない。神に対する全き信頼に対して、神の御手は動くのです。
○現実問題において、祈りが必要な時、私たちは神を信じられるまで祈る必要があります。祈りの答えが既に与えられたと信じて神に感謝することができるまで祈り続けることが必要です。祈りの長さではなく、いつ完全に信じることができたかということが問われています。
文語訳聖書では「得たりと信ぜよ、然らば得べし」と書いています。祈ったときにはもう既に与えられたと信じて祈るときに、その結果を見ることができるということですね。
私たちはしばしば「信仰なき信者」となっているのです。
○祈りの勇者と言われるジョージ・ミューラーは、「心配の始まりは信仰の終わりであり、真の信仰の始まる時は心配の終わる時である。」と言いました。
まさにバルテマイは疑うことなくイエスに近づいたのです。1週間後には十字架上で死を迎えるイエスの目に、この盲人の熱烈なる純粋な信仰は、どれほど大きな慰めになったことでしょうか。
私たちも改めて信仰を持って生きることの意味、信仰を持って祈ることの素晴らしさを体験したいものです。
神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰