「仕えるために」(マルコ 10:32〜45、第二 コリント 5:16〜21)
イエスは言われました、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ10:45)
ここにイエス・キリストの生き様が、端的に表されています。そして、それはまた、私たちの生き様でもあるべきなのです。このような重大な発言をなさる時、弟子たちは、全く異なる低い次元の会話しかしていない場合があります。
ここで「愛の本質」が語られています。自己中心的人間が、いつ他者のために生き、神中心の生き方に変わることができるかという事は、キリスト教信仰の中心的テーマですね。
福音とはこの心の転換を言うのです。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネは…
「栄光をお受けになる時、一人
をあなたの右に、一人を左に座るようにしてください」とイエスに願った。
イエスは言われた、「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていない。あなた方は、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができるか」(マルコ10:35〜38)
イエスが三度目の受難予告をしておられるときに、弟子たちは将来の地位争いをしていたのです。
ここで、私たちには
「自分本位の利己的な祈りは聞かれるのか」というテーマが突きつけられています。実は自分の罪がわかるまでは、本当に祈りの意味はわからないのです。得ることのみの祈りは、与えることの幸いを理解させないのです。すなわち「仕える者の生き方」は見えてこないのですね。
私たちは、しばしば厳しい試練を通り、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験したときに、真の祈りが与えられ、謙遜を学び、人に仕える生き方を見出すことができます。イエスの杯、イエスの受けるバプテスマとは「十字架の道」なのですね。
さて、神と人とに仕える生き方とは、言葉では表せても、現実に実践することが困難ではないでしょうか。
大変深い言葉を残された藤木正三牧師は、マザー・テレサの働きについて次のように語っています。
「使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。それは生かされているところで誠実であろうとする心構えが、自然に見出し、やむを得ないこととして担い、果たしていくものです。…おそらく本人は、自分のしていることを、使命などとは考えていないことでしょう。」
現実に、私たちが生かされている日常生活の場所において、意識的に奉仕する事はむしろ不自然かもしれませんね。与えられた場所で、誠実にその責任を果たしていく中で、自然に無意識に「仕える生き方」ができるのでしょう。イエスの言葉は、その十字架でさえもやむを得ない自然として語られました。
弟子たちは、その意味を理解しませんでしたが、私たちは御言葉を通してその意味を体得したいと願っています。
神の祝福が、あなたの心の変化の中に豊かに与えられますようにお祈りいたします。
小田 彰