2024.3.24

「くびきを負うろば」

マタイ21:1〜11、ピリピ2:5〜11

 

いよいよ受難週に入ります。

群衆のホサナ、ホサナと言う歓声を聞きながら、主は子ろばに乗ってエルサレムに入城されました。

それは輝かしい入城に見えましたが、ゴルゴタの丘に向かう第一歩でした。

それは栄光の入城ではなく、父なる神の御心に従って十字架の死に至るまで従う従順の入城でした。

イエス様を背に乗せた子ろばとは誰のことでしょうか?

私たちであるべきではないでしょうか?

私たちはイエスのために何をさせていただけるのでしょうか?

 

オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスは二人の弟子を遣わして言われた、

「向こうの村へ行きなさい。

すると、すぐ、ろばが繋がれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。

それを解いて、私のところに引いてきなさい。

もし、誰かが、あなた方に何か言ったなら、主がお入用なのです、と言いなさい。

そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。」(マタイ21:2 〜3)

 

歴史的なイエスのエルサレム入城の大切な脇役は「子ろば」でした。

イエスはエルサレムの都で十字架にかけられることを予期していました。

ですから、避けることもできたはずです。

しかし死を覚悟して進まれました。

また、馬に乗って入城することも選択肢としてはあったでしょう。

BC 333年アレクサンダー大王は勝利の印として白馬に乗って入城しました(ゼカリヤ9:9)。

しかし、主は誰も乗ったことのない子ろばを選んだのです。

子ろばは「謙遜を意味し」また、「平和の使者」の印でもありました。

イエスの入城は、私たちの心の中にお入りになる姿を暗示しています。

本当に謙遜の主を心の中にお迎えしているでしょうか?

 

[キリストの七重の謙遜] ピリピ2:6〜8

受難週のイエス様の行動を一つ一つ学ぶ事は意義がありますが、一言で言うならば十字架に向かう謙遜の歩みであり、父なる神への従順の旅でした。

①神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、

②おのれを虚しうして僕の形を取り、

③人間の姿になられた。

④その有様は人と異ならず、

⑤おのれを低くして、

⑥死に至るまで、

⑦十字架の死に至るまで従順であられた。

 

子ろばに乗ったイエス様のお姿は「従順」そのものでした。

 

このことを現実の私たちの生活で、どのように捉えたら良いか思案しました。

マザーテレサの言葉を発見しましたのでご紹介します。

 

"主イエスよ、どうか私たちに悟らせてください。

真に満ち溢れた生活への道は、日々死ぬことのうちにのみあることを。

私自身が、日々死ぬことのうちに、自己中心的な欲望が、日々死ぬことのうちに、

なぜなら、あなたと共に、死ぬことによって、私たちはあなたと共に甦るからです。"

 

謙遜とは、日々の選択の中で、一つ一つ自分に死ぬ道を選ぶことですね。

命がなくなってしまえば良いということではなく、一つ一つの選択の中で、言葉の選択、対人関係における選択、金銭における選択、時間の使い方や、好きなものを食べるか食べないかということまで、日々自分に死ぬということなのですね。

大変これは重い表現ですが、キリスト教信仰が2000年の間世界に強い感化を与えて来た理由は、十字架による歩みを貫いた人々がいたからなのです。

 

受難週の日々があなたにとって深い学びとともに祝福の時となりますようにお祈りいたします。

小田 彰