2024.2.25

「義・信仰・愛・平和」(第二テモテ 2章22〜26節、マタイ 5章1〜12節)

 

ロシアがウクライナに侵攻して、戦争が始まってちょうど2年になります。

戦いの様子を見ていますと勝利するにはそれなりの理由があり、敗北するにもそれなりの理由があります。ローマの獄中にいるパウロの目から、若き指導者テモテの働きを見るときに、このままではいけない、忠告しなければならないということが示されたのでしょう。先週は、復活を信じない指導者たちをいかに導くべきかということを語りました。今週はテモテ自身の性格を改めるように迫っています。

 

テモテの手紙におけるサタンとの戦いは、教会の中の人間関係における問題です。今日で言うならば、親しい家族に対する伝道であり、親しい友人や知人との関係において、いかに信仰を貫くかと言う課題でしょう。

「そこであなたは若いときの情欲を避けなさい。」(2: 22)この言葉は、エペソ教会の牧師であるテモテに語られていますから、感情的にならず、怒らず、落ち着いて人々に接しなさいという勧めです。

テモテは線の細い知的リーダーであったようです。しかし、論争好きで、言葉においては、一歩もひかないところがあったのでしょう。相手を論破する理論家ですが、パウロの目から見ると、結果的に断絶と分裂を生み出してしまう弱さを持っていたのでしょう。

「主の僕たるものは、争ってはならない。誰に対しても、親切であって、よく教え、よく忍び、反対するものを柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は彼らに悔い改めの心を与えて、真理を知らせて下さるでしょう」(2:24.25)

たとえ自分が正しくて、相手を論破することができたとしても、彼らが教会から離れてしまい、信仰を失ってしまったならば、何の意味もない。論争しながらも、相手の心をつかむような伝道者となりなさいと言っているようです。「主の僕(しもべ)争うべからず」とは、昔からよくクリスチャンに対して言われることですね。

事実教会の中に、信徒同士の関係において争いや議論があるものです。

 

今年度は「キリストにある希望」というテーマを意識していますが、パウロはここでイエス・キリストのお姿に真の勝利の秘訣を見い出しています。

「そして、清い心を持って、主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2: 22)

義とは神の義であり、キリストの十字架により罪から救われる恵みのこと。

信仰とは人の業ではなく、神が最善を成してくださるという徹底した信頼。

愛とは、教会におけるすべての事の動機は愛を基とすべきこと。

平和を追い求めて争わないことを追い求めなさいと迫っています。

 

これは一言で言うならば「イエス・キリストにならえ」ということですね。最後の晩餐で弟子たちに謙遜を教えるために、主ご自身が彼らの足を洗いました。私たちに罪の重さとその裁きを示し、悔い改めを教えるために主は十字架の道を歩まれました。

「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5: 9)

キリストはあらゆる論戦の中で、平和を求めておられました。それは神の子のご性質です。

 

私たちは、試練にぶつかったときに、直近の問題を見るよりも、遠くの目標を見て考える方が良いのです。テモテが教会の中の人間関係の衝突で疲れ果てている時、「私たちはイエス・キリストのために働いているのだ」という目指すべき目標を示そうとしたのです。

何を求めているかによってあなたの人格と価値が決まります。義と信仰と愛と平和とを追い求めましょう。

 

「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは全て添えて与えられるであろう。」(マタイ6: 33)

今週も主があなたの心と言葉とを守ってくださいますようにお祈りいたします。

小田 彰