2023.8.20

「荒野花咲」

テーマ「主のかいなよ」

聖書 イザヤ51章9〜16節、第一ペテロ4章7〜11節

 

「主のかいなよ、さめよ、さめよ、力を着よ。さめて、いにしえの日、昔の代にあったようになれ。ラハブを切り殺し、龍を差し貫いたのは、あなたではなかったか。」(イザヤ51:9)

 

今日はイザヤ書の難解な部分に触れることになります。主のかいなとは腕の事ですが、今絶大なる神の力を必要としているイザヤの叫びが聞こえます。それはイスラエル民族の叫びでもあります。そして私たち現代に生きるクリスチャンの願いでもあります。

かつてエジプトから脱出したときには、奇跡に次ぐ奇跡があり、ついに紅海の水を2つに分けて道を作た神が、今バビロンから脱出しようとする者たちの為にも、偉大な力を表していただきたいという叫びです。一見神がご自身の働きを隠しておられるように見えたのでしょう。絶大な心をいただかなければ、民族の解放はありえないと感じて、イザヤが叫んだ祈りと思われます。

ラハブは神話的怪物(イザヤ51:9、ヨブ9:13、26:12)であり、龍もまた神話的怪物ですが、神に敵対した蛇を象徴しています。それは終末論においては反キリスト的龍であり、黙示録には、「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わして年を経た蛇は、地に投げ落とされ、その使いたちも、もろともに投げ落とされた」(黙示録12:9)と記されています。

イザヤ書には、天地創造伝承、アブラハム伝承、出エジプト伝承が繰り返し語り継がれています。それに今バビロンにおいてオリエント神話が加えられています。この巨大な龍は、明らかにバビロニアの神話が影響を与えています。

その龍が終末において神から徹底的に裁かれることを聖書は語っています。

 

私たちが聖書を読むときに、過去の記録と未来の預言の言葉との間に、「今」をいかに生きるかという決断を迫られているのです。

そこで私たちの信仰が問われているのです。今まで持っていた以上のより強い大きな信仰が問われているのです。

 

今、ロシアとウクライナの間で起こっている激しく長い戦争も、あるいはこれから中国や北朝鮮を相手にあるかもしれない長く厳しい戦争も、もしかしたらアフリカや全世界をも巻き込んだ、第三次世界大戦のようなことも、この龍の仕業なのです。

また、私たちがそれぞれ個人的に、病気や老いや、経済的な問題や、仕事や、人間関係における問題に遭遇する時、この龍の働きを感じます。

ですから、私たちも「主のかいなよ、目覚めてください。この敵を滅ぼしてください」という祈りを持っています。

 

今解放されて救われた人々の歌が出て参ります。

「主にあがなわれたものは、歌を歌いつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべにとこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ51:11)

 

ここに私たちクリスチャンの喜びの姿が象徴されています。絶体絶命というような世界から解放されて、自由と楽しみを共有することが実現した人々には、冠のようにして喜びが満ち溢れています。

☆私は「悲しみと嘆きとは逃げ去る」という言葉が好きです。心の内に喜びがあり、イエス・キリストによる人生の救いの体験が明確であったならば、悲しみや嘆きはもはや近づくことができません。

 

そこでイザヤは「なぜ恐れるのか」という強い言葉で迫ってきます。

「私こそ、あなたを慰めるものだ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。」(イザヤ51:12)

どんなに大蛇のように見える悪魔の力に対しても、イエス・キリストの十字架によって、私たちは勝利することができます。ですから、いかなる攻撃やいかなる困難も恐れるに足りません。

 

さて、2023年の猛暑の夏に生きる私たちにとって、聖書は次のように言っています。

「万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を謹んで努めて祈りなさい」(第一ペテロ4:7)

 

私たちはイザヤと共に祈りましょう。

聖書の世界で働かれた大いなる神の力が私たちの現実生活の中にも現れますように。そして、きたるべきキリストの再臨と新天新地を夢見ながら、歌いつつ前進できますように。主よ、どうぞお助けください。アーメン。

小田 彰