2022.3.13

「信望愛主」

テーマ「試練の日に」

聖書 第一 ペテロ 4章12〜19節

 

先週、第一ペテロ4章7節から

「万物の終わりが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで努めて祈りなさい」という厳粛な言葉を語らせていただきました。

今年1月から語るべき聖書の言葉について昨年の夏から祈っておりました。特にイザヤ書を語りたいと願いましたが、神様の導きはこのペテロ第一の手紙でした。しかし今にして思えば、全世界が大きな痛みを伴う「火のような試練」の時代を迎えていたのです。今ウクライナで起こっている事は第二次世界大戦にも匹敵するような大事件です。そして21世紀では考えられないような野蛮な方法で殺戮がなされています。まさに私たちはなす術を知らないのですが、ただ神の御手がこの苦しみを止めて下さるように祈るのみです。

 

そして今日のテキストは「火のような試練」のための心備えであります。初代教会においてはローマ帝国全土における迫害を意味しました。しかし私たちにとってはそれぞれの人生に起こる苦しみ悩みを語っていると考えても良いでしょう。

「愛する者たちよ。あなた方を試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみに預かれば預かるほど、喜ぶが良い。それはキリストの栄光が現れる際に喜びにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなた方は幸いである。その時には栄光の霊、神の霊が、あなた方に宿るからである。」(4: 12-14)

試練を喜べと言うのですが常識的にはそれは受け入れがたいものです。英国の大説教家ロイドジョーンズは「私たちは本質的に新しい人なのである。新しい心、新しい見方、新しい方向性を持っているのです」と「キリスト者の戦い」という本の序文に書いています。生まれながらの性質のままでは試練を喜ぶ事はできません。しかし罪赦され、清められ、神の子として新しく生まれ変わった者にはそれは可能なのです。

 

また、先週もお話ししましたように「天上に座する悪の霊との戦い」であることを知らねばなりません(エペソ6: 12)悪魔は私たちの心を神の愛から切り離そうとします。せっかく信仰を持ったのに、どうしてこんなに不幸な出来事が起こるのか?というような疑問が私たちの心をキリストから離れさせてしまうのです。

しかしこの聖書は、試練に会えば会うほど、イエス・キリストの十字架の苦しみに預かることだと言っています。もっと言うならば、苦しみを通してイエス・キリストと一体になるということなのです。このような信仰を持つことができるならば、どのような苦難をも甘んじて受けていくことができるでしょう。

 

詩篇55篇において、ダビデは息子アブサロムの反逆にあった時、最も信頼すべき側近が自分を裏切ったことで大変悩みました。しかしその祈りと叫びは、委ねる信仰へと引き上げられたのです。

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。主は正しい人の動かされるのを消して許されない。」(55: 22)

 

今週も現実的には厳しい出来事の中にあっても、むしろ喜び感謝して進むことができますようにお祈りしています。

ウクライナの平和のために、戦争の終結のためにお祈りください。

小田 彰