2022.2.20

「信望愛主」

テーマ「キリストの勝利」

聖書 第一 ペテロ 3章13〜22節

 

○「しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなた方は幸いである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。」(3:14)

 

前回に引き続き迫害の時代にどう生きるか、ペテロの体験からアドバイスしています。

それはかつてイエス・キリストが彼らに語った言葉だったのです。

「義のために迫害されてきた人たちは幸いである。天国は彼らのものである」。(マタイ5:10)

 

この御言葉の背景には通常の人間関係におけるトラブル等を遥かに超えた、歴史的な国家的な大迫害の嵐の中でどう生きるかが問われています。

①「心の中でキリストを主と崇めなさい」(3:15)キリストの姿を思いおこしなさい。

②「あなた方のうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」(3:15)

 

最善を尽くしながら報われないばかりか、命までも奪われてしまうような中にあって、恐れず乱れず対処することができるだろうか。

1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所でナチスの迫害によって絞首刑に処せられたディートリッヒ・ボンヘッファー牧師の最期はまさにペテロが語った通りの姿でした。

処刑の前にひざまずいて祈りを捧げている姿を見た医者が、かつて見たことのない委ね切った、確信に満ちた、落ち着いた姿であったので驚いたと語っています。39歳の神学者でした。

 

○「キリストも、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄にとらわれている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(3:18、19)

 

この部分は「セカンドチャンス」と言われる聖句であって、大変難解な部分です。キリストは十字架上で死なれました。

そして遺体はアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。

しかしその霊は土曜日に安息日を過ごしたのではなく、既に死んだものの霊のところ(陰府)に降り宣教したと言うわけです。

その後再び肉体に戻り復活の姿で弟子たちに現れたのです。

この記事から、既に信仰を持たずに死んだ肉親のために、祈り、場合によっては洗礼式をするようなことが可能となると考える人たちがあります。

何とか家族が皆いつか天国で再会したいと願う気持ちは理解されますが、それは神の権威の領域にあるのであって、この御言葉を盾にとって、私たちが死者の救いを伝えるべきではありません。

その意味に於いてセカンドチャンス論には反対です。

 

「見よ、今は恵の時、見よ、今は救いの日である」(第二コリント6:2)

地上にある間に信仰告白をし、キリストの救いを受け入れてくれるように私たちは働きかけるべきです。

それが伝道のチャンスです。

それ以上の事は全て神の権威に委ねるべきです。

言葉を変えれば「今」こそ私たちに与えられたチャンスなのです。

そしてそこにイエス・キリストの勝利があります。

 

「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちと諸々の権威、権力を従えておられるのである」(3:22)

使徒行伝7章で石打の刑に遭って殉教したステパノが天を見上げた時、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(7:55)と言いました。

 

私たちにとっても逆境の中で祈る時、私たちのために執りなしていてくださるイエス・キリストの姿を見るならば、どんなに力づけられることでしょう。

それこそ信仰の絶対的な力なのです。

神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰