2021.7.4

テーマ「栄光から栄光へと」

聖書 第二 コリント3:12〜18

 

 昨日来の豪雨のため被災された方々のことを思い主の守りを祈ります。またその地域に近いところに住んでいらっしゃる皆様のために祈ります。

 

 今日のテキストは、新約聖書の中でも最も深い、あるいは難解な部分と言うことができます。読み流すことのできない箇所であり、現実に私たちの希望がどのようなものであるかと言うことを語っています。

①「しかし主に向くときには、その覆いは取り除かれる。」(3: 16)

モーセはシナイ山上で神と会話し、石の板2枚に十戒の御言葉をいただいて山から降りてきました。(出エジプト記34: 29-35)その顔は輝き光を放っていたために人々が近づくことができなかったのです。そこで彼は顔を覆ったと書かれていますが、パウロはその輝きが消え去っていくのを見られないために覆ったのだと解釈しています。ユダヤ教においては神に近づく事は恐るべきことであると思われてきましたが、新約時代にはイエス・キリストによって、聖霊によって、神に直接近づくことができる恵みをいただいたと語っています。

 実際私たちは、信仰生活の中で神様と自分との間にベールがかかっていて、祈りが届いていない経験をする事は無いでしょうか。信仰を持ちながらも下を向いて歩いていて、直接主を見上げない過ちに陥っていることがあります。今朝も神様と私たちの関係において、何者をも差し挟まない明確な姿勢が求められています。

 

②「主は霊である。そして主の霊のある所には自由がある」(3: 17)

 クリスチャンとして正しく生きようとするときに、聖書の教えが窮屈で息苦しく感じる事はないでしょうか。それは旧約の律法主義のように私たちの生き方を縛るものであると錯覚しているからです。主イエス・キリストが私たちにくださる聖霊は、信仰による神への愛を燃え立たせくださるために、自由に喜びを持って主に仕えるようにしてくださいます。ですから今日も聖霊を求めましょう。聖霊様が心の内に満ちてくださるように、聖霊様が御言葉を与えて下さるように、聖霊様が悪魔の力を撃退して下さるように祈りましょう。

 

③「私たちは皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく。」(3: 18)

 キリスト教の教理には、罪からの「救い」、性質の「聖化」、そしてここで語られている栄光の姿に化せられる「栄化」の3つの段階が示されていますが、現実の問題として大変難しい課題です。

 すでにクリスチャンとなって、生き方や存在に新しい輝きが与えられているのでしょう。しかしそれは段階的にその輝きを増し、再臨のキリストに会う日には主と同じレベルにまで化せられるという希望です。私の手元にある英語の訳には次のように語っています。

Being transformed into the same image from one degree of glory to another.

段階的に変貌していくと言うのです。

 

 今あなたの現実の日常生活でこのような聖書の解釈はあまり必要がないと思われるかもしれませんが、これが聖書が私たちクリスチャンに求めている信仰の未来像なのです。

 

 

 私が英国に留学して、多くの牧師や神学者たち、またクリスチャンたちに会いました。ある時ヨーク市で聖会があり、一神学生として招かれましたのでそこで証をしました。しかしその後講壇に立たれた説教者バーンズ牧師の表情の輝きと深い人格に圧倒されました。今日まで50年間そのような驚きを経験した事はありません。戦争で弾丸を顔に受け顔面が歪んでいるにもかかわらず、その瞳の輝きと優しさは日本から来た私を驚かせました。神と共に生きている人の持つ輝きでありました。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくという御言葉の意味を感じた瞬間でした。

 

 今日あなたの礼拝において、聖霊があなたに語り、あなたの見るべきものを見させて下さいますようにお祈りいたします。神の祝福と守りがありますように。

小田 彰