2021.5.2


ワンポイントメッセージ

テーマ「病の床でさえ」

聖書 詩篇 41:1〜13

 

詩篇150篇は5巻に分けられています。 そして41篇は第1巻の最終章です。

 

 42回にわたる学びを通して詩篇は

①いかなる時にも神により頼むこと

②常に悔い改め砕けた心で祈ること

③すべての思い煩いを捨てて委ねること

の3つのメッセージを語っていると言えましょう。

 

 しかしおもにダビデの生涯を通して与えられたみことばを味わいましたが、それは容易なことではないことがわかります。

まさに命がけの葛藤であったとも言えるでしょう。

私たちが祈りの生活を通し、御言葉と格闘して、ついに勝ち得るような高い次元の恵みであると思います。

しかしこの目標から目を離してはなりません。

 

 「貧しい者を省みる人は幸いである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。」(41:1)

41篇は、ダビデ王の晩年息子アブサロムの反逆によって王位を狙われ、城を明け渡して逃亡した苦しみの中から書かれたと思われます。サムエル記下15章で多分BC1022年(Scott)のことでしょう。

逃亡したとは言え国王であり最も豊かなパレスチナ最大の王でしたから、「貧しい者」と言うのは適当では無いのではないかと思います。実は詩篇研究の長い歴史の中で、41篇はメシア詩篇と言われてきました。

天上に居られて栄光と富と力を存分にお持ちであったお方は、地上に生まれ大工の子として生活し、貧しい者となられて、ついには十字架の上で死なれたのです。

すなわちこれはイエスキリストを預言しています。(ピリピ2:6〜9)

「主は彼をその病の床で支えられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとく癒される」(41:3)

ダビデが息子アブサロムの反逆によって命をねらわれた時、病気であったという記述はサムエル記にはありません。

あるいは病弱の時を狙って息子が反旗を翻したと言うことも考えられますが、むしろ彼は息子の問題や、自分の近親者の問題、あるいは国内における分裂分派の問題などで心を煩わしていたのではないかと想像されます。

「支えられる」と言う意味は忍耐強く耐えることであり、「癒される」は状況を変えると理解されてきました。

クリスチャンが信仰を持ったから病気にはならない、事業で失敗しない、コロナにはかからないなどと言うような解釈は聖書からは見出せません。

しかし病の中にあっても忍耐することができる。困難の中にでも感謝と賛美の輝かしい生き方ができる。

それは「癒される」ことであります。

「まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみをになった」(イザヤ53:4)

イザヤ書のメシア預言はイエスキリストのお姿を意味していると同時に、病の床について弱き者となってくださったイエス・キリストご自身を指し示しています。

「私の信頼していた親しい友、私のパンを食べた親しい友さえも、私に背いてくびすをあげた」(41:9)

これはダビデにとってはアヒトペル(サムエル下15:12)であり、受難のイエスキリストにとってはイスカリオテのユダです。

 

 ただいま日本だけではなく、インド、米国、ブラジル、そして世界中の国々が病の中に苦しんでいます。

簡単に勝利することのできない戦いの最中にあります。

私たちの前に両手を広げて癒し主であるイエス・キリストが立っておられます。それはあの十字架の内にある癒しです。

「私は主であって、あなたを癒すものである」(出エジプト記15:26)

 

私は42歳の時に伝道者としての行き詰まりを感じ、生活も信仰も伝道の気力も絶えかかっていました。

渋谷駅のプラットフォームを行ったり来たりしながらぶつぶつと祈っておりました。

その時に与えられた言葉を今日「勝利の祈り」として週報に載せています。

 

主よ、すべてを委ねます。

主よ、あなたに従います。

主よ、全てを捧げます。アーメン。

 

この祈りを大声で捧げることができた時、胸のつかえが下りて、気持ちがすっきりとしました。

とにかく全て任せていきましょうと決心しました。

以来32年伝道を続けてくることができました。

この祈りはまさに詩篇が私に今語っている事でもあります。

 ゴールデンウィークの最中ではありますが、あなたの前に癒しの手を広げていてくださるイエス・キリストを見上げましょう。

信じてゆだねて従いましょう。

すべては神の栄光、神への賛美、溢れ出る感謝に変わるでしょう。

小田 彰