2021.10.10

テーマ「豊かな恵みのわざ」

聖書 第二 コリント8章6〜15節

 

「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられた。それはあなた方が、彼の貧しさによって富む者になるためである」(8: 9)

 

先週に引き続いて、伝道者パウロがコリント教会の人々に、エルサレム教会の貧困を助けるために協力してほしいとアピールをしているところです。そのためにイエス・キリストの模範を示しています。神の御懐においてすべての力と豊かさを持っておられた主が、飼い葉桶の中の赤子となり、貧しく弱く小さくなられ、ついに十字架にまでかけられて命を与えてくださった。そのことを思えば、弱い人々を助けることなどできるでしょうという論理です。

しかし現実的にはそれができないのです。神を信じ、イエス・キリストの十字架の贖いにあずかり、日々信仰生活をしていても、誰かを援助するために大きな犠牲を払おうとすると、たじろいでしまうのです。自分の生活があり、そこまでしなくて良いという思いがあり、他の人はどれぐらいしてるのだろうかと探りを入れ、ついには沈黙して手を下さないのです。

それは単に愛情が欠如していると言うことではなく、信仰が育っていないのです。神様が豊かに与えてくださり、必要ならばさらに与えて満たしてくださるから、困った人を助けてもそれによって不足が生じる事は決してないという成熟した信仰に至っていないのです。

「信仰によって生きる」(Living by faith!)という事は、すべては神様から与えられ、神様の御心のままに導いて下さるのである。決して自分で操作するのでは無い。また与えたら損失が生じて、自分が貧しくなるのでは無いのだということに気づかないのです。

 

「すべてのものはあなたから出ます。我々はあなたから受けて、あなたに捧げたのです。」(歴代志上29:14)

これは英国国教会の献金の祈り中にに引用されているみ言葉です。

人生とは神から受けた賜物を、神にお返しする旅なのです。それはしばしば貧しい者を助け、福音宣教のために汗を流し、困っている人に手を差し伸べる事でもあります。

 

英国に於いて1600人もの孤児を養ったジョージミューラーは、事業を続ける経費に行き詰まり、また子供たちに与えるパンがなくて悩んだ時にも、誰にも告げる事はありませんでした。神が始められたことを神が支えたもうと確信を持っていたために、困難のたびに自室でひたすら祈ったのです。そしてその都度、必要が満たされました。

 

54年前の10月10日、私は新宿百人町を歩いていて、淀橋教会の13階段を上りました。自殺願望の強い青白い顔をした青年でした。またどんなことも努力は報われないこと、そして祈りは聞かれないこと、神の実在が見えないという信念に支配されている青年でした。しかし聖霊に満たされ、信仰の歩みを始めると、祈れば道が開かれることに気づきました。お金がなくても必要ならば与えられるという信仰が与えられました。

「私の神は、ご自身の栄光の富の中から、あなた方の一切の必要を、キリスト・イエスにあって満たしてくださいます。」(ピリピ4: 19)

この御言葉は今日に至るまで50年以上の間私を支え続けています。神を信じ救いに預かることと、日々の生活の必要が満たされることとは同じ信仰なのです。

もし一切の必要が満たされるとするならば、困っている人を助ける事は喜んでできるはずです。与えれば与えるほど報われるからです。神の恵みは与えれば与えるほどさらに増大するからです。

それは単にコリント教会の人々の問題ではなく、私たち一人一人が生活に必要なもの、お金、健康、その他すべてのチャンスも神が祈りに応えておあたえくださるのです。信仰によって生きるとはそういうことなのですね。イエス・キリストによってなんと大いなる富が与えられたことでしょうか。

ですから主は言われました。

「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒行伝20: 35)

 

「信仰によって生きる道」を体得しましょう。そうしたらあらゆる愚痴や不満が消えてしまうでしょう。そして私たちは「信じましょう」「進みましょう。きっと与えられます」と大胆に言うことができるのです。

 

主イエス・キリストを見上げつつ、大胆な信仰を持って進みましょう。神の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

小田 彰