2026.2.1

[活水湧出](5)

「潤った園のように」(イザヤ 58:6〜12、ヨハネ 4:1〜15)

 

「誰でも渇くものは、私のところに来て飲むが良い。私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:37、38)とイエスが言われた時「私を信じるもの」とは何を意味したのでしょうか?

 

イエスを信じるという事は2つの意味を持っています。

①あらゆる逆境において、イエスの満たしを信じることです。物質的、精神的必要においても、能力やあるいは霊的力における逆境においても、神が必ず必要を満たしてくださるという信仰です。

 

②またいかなる誘惑の中にあっても、イエスから目を離さないで信頼することです。人生には誘惑があります。信仰がぶれることがあります。誤った思想が入ってくることもあります。しかしいかなる時にもイエスから目を離さないで信頼していくことです。

 

それは言葉を変えて言えば、どんな時にもイエスの御名によって祈ることです。「生ける水が川となって流れ出る」ような絶えることのない水の流れについてイザヤが語っています。

「飢えたものに、あなたのパンを施し、苦しむものの願いを満ちたらせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたの闇は真昼のようになる。

主は、常に、あなたを導き、良きものをもって、あなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った、園のように、水の絶えない泉のようになる。」(イザヤ58:10、11)

 

イザヤ書58章は、形式的な祈りではなく、真実の祈りとは何かについて語っています。祭司たちが、断食し、徹夜で祈っても、それは自己の願望達成であり、貧しい者や飢えたも者に対する何の配慮もない、愛のない祈りは全く無意味であると言うのです。

[真の愛の執り成し人に与えられる恵み]

①主の導き

②祝福と満たし

③新しい力の賦与(骨を強くされる)

④潤った園、水の絶えない泉の祝福

 

それは付け焼き場の知識ではなく、

あらゆる問題の変化においても、窮することのない溢れ出る知恵と力です。そのような人は艶やかで美しいのです。

 

イエスがサマリヤのスカルの井戸端で人目を避けて、昼の12時ごろ、水を汲みに来た女に語った御言葉を味わいましょう。

「この水を飲むのは、誰でもまた渇くであろう。しかし、私が与える水を飲むものは、いつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう。」(ヨハネ4: 13、14)

 

このサマリヤの女の後日談については聖書は記録していません。しかし、彼女が満ち溢れる喜びを得、確信を持ってイエスの救いを宣べ伝えたであろう事は想像できます。

 

今週もイエス様を全身全霊をもって信じて参りましょう。そこには潤った庭園のような美しさがあります。決して行き詰まることのない溢れてる泉のような知恵が与えられます。それはすべてのクリスチャンに約束されている祝福の印です。

祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

 

小田 彰