2026.1.11

「渇いている者は来れ」(イザヤ 55:1〜7、ヨハネ 7:37〜39)

 

今年の標語は、「活水湧出」

という4文字です。

主イエスが、仮庵の祭りの最終日に、メシヤとして大胆に宣言されました。

「誰でも渇くものは、私のところに来て飲むが良い。私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。(ヨハネ7:37.38)

 

この十字架での死を意識した大胆な言葉は、イザヤ55: 1から引用されていると思われます。

 

「さあ、渇いているものは皆水に来たれ。金のないものも来たれ。来て買い求めて食べよ。あなた方は来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」

 

イザヤ書は1〜39章は第一イザヤ(エルサレムのイザヤ)、40〜55章は第二イザヤ(バビロンのイザヤ)、56〜66章は第三イザヤと言われています。特に55章は第二イザヤの締めくくりの「福音的宣言」と言われています。そのままヨハネによる福音書を読むようですね。

 

バビロンに捕えられていたイスラエル民族の解放の預言ですが、長い間バビロンの栄華を見て、世俗の豊かさは充分味わいながらも、魂の渇望は極限に達していたことを思わせられます。そこで「渇くものは皆、水に来たれ」と言われたのです。

 

「なぜ、あなた方は糧にもならぬもののために、金を費やし、飽きることもできぬもののために、労するのか。私によく聞き従え」(イザヤ55:2)

 

このイザヤの叫びは、世俗の価値観から、神の国の価値観へ転換を求めています。バビロン捕囚のため、不自由ではあっても、ある程度生活面の自由は与えられていました。遊牧民族であるイスラエルにはない大都会の豊かさ、富、豪華な建築物、輝きに満ちた生活、限りなく欲望を満たす快楽の様子は、少なからず若い世代に浸透していったことでしょう。今から2700年前、現代に勝る豪華さを極めていたバビロンに感性が毒されてしまっていました。神の言葉は、人間の魂の充足は、そのような物質と快楽ではないという事を語ったのです。

 

年頭にアモスの預言をお伝えしました。

 

主なる神は言われる、「見よ、私が飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である。」(アモス書8:11)

 

バビロンにいたイスラエル民族にとっても、また現代に生きる私たちにとっても神の言葉の飢饉の時代なのです。私たちは真理の言葉に飢え渇いているのです。

 

「人間の三分性」についてお話ししたことがあります。

 

「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全く清めてくださるように。また、あなた方の霊と心とからだとを完全に守って、私たちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのないものにしてくださるように。」(第一テサロニケ5:23)

①「霊」は神ご自身の部屋で聖霊が住まわれるところです。

②「心」は知、情、意 と言う人間の最も知的な部分です。

③「からだ」は地上に生を受けた私たちにとっては、生涯必要なものではあります。それは健康だけではなく、物質的豊かさも含んでいるでしょう。

 

②と③が満たされても①の魂の充足がない限り、人の渇きは癒されないのです。そこに信仰が人生における最も大事なことであるという優先順位が示されているのです。

しかし、現実的には②と③が生活を支配し、日々のニュースの話題であり、世界に戦争までが起ころうとしている原因になっているという事は驚くべきことです。最も大切なものが忘れられてしまっているのですね。

 

アミエルという人は「神の欲するものを欲することが、我々に安息をもたらす唯一の叡智である。」と言いました。

 

再びイエスの招きの声に耳を傾けましょう。「誰でも渇くものは、私のところに来て飲むが良い」、否むしろイエス様の身元でしか魂の癒しは得られないのだということを確認して過ごさせていただきましょう。

 

神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰