「死から命へ」マルコ 15章33〜46節、16章1〜8節、Ⅰコリント 15章42〜49節
イースターおめでとうございます。今年はイースターにYouTubeから賛美によるメッセージをお送りいたしました。
こちらのライトハウスホームページの動画メッセージからご覧になることができます。
YouTubeからも直接ご覧になることができます。この賛美によるメッセージを補う意味で「イエス様の十字架と復活の目撃者たち」についてお話しいたします。これらの人たちは、イエス・キリストに、信仰を持って出会い、見上げ、尽くした人々です。
①ローマ軍の百卒長
イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた。その時神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百卒長は、このようにして息を引き取られたのを見ていった、「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15:37-39)
マルコによる福音書は、ローマ人のために書かれました。イエスの死の証人として、ローマの軍隊の最も尊敬されている百卒長の言葉が載せられました。彼は「おお偉大な戦士よ」と言わずに、「この人は神の子であった」と言ったのです。
②アリマタヤのヨセフ
アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスの体の引き取り方を願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。(15:43)
ここで先程の信仰の目が開かれた百卒長が登場します。
ピラトはイエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。(15:44.45)
イエスの死に際して、丁重にその遺体を十字架から取り下ろしたに違いありません。そして、ヨセフの求めに応じて、丁重にその亡骸を渡したのでしょう。この百卒長においても、アリマタヤのヨセフにおいても、イエスに対する深い信仰とこの方のために尽くさずにはいられない献身の思いが満ち溢れていました。
ヨセフは自分のために用意した墓をイエスに提供しました。
③朝早く墓に行った婦人たち
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、行ってイエスに塗るために香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出の頃墓に行った。(16:1.2)
婦人たちは、イエスの死の現場に立ち合いました。またヨセフの墓に行って埋葬に立ち会いました。そして今ローマの兵隊がガードしていることも気にせず、墓に行ったのです。彼女たちの信仰とイエスに対する愛情は最高潮に達していました。しかし墓の中にはイエスはおられなかったのです。白い衣を着た若者が言いました。
驚く事は無い。あなた方は十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ご覧なさい、ここがお納めした場所である。(16:6)
この婦人たちはイエスの復活の現場には立ち会うことができませんでした。しかし、復活されたことを最初に聞いたのです。
さて、
信仰とは2000年前の出来事を、今、眼前で見ているかのように受け取ることです。昔の出来事ではなく、
遠くパレスチナの出来事ではなく、今、私のための十字架であり、私のための復活であるという認識です。
それは聖霊のお働きです。
57年前、私にとって遠い歴史的イエス・キリストの存在が、10月10日、突然私のためであり、私のすぐそばで起こった出来事であると実感しました。その時私は、ただ悔い改め、へりくだって主の御助けを求めたのです。
まさに古い自分に死んで、イエス様によって新しい命に生かしていただいた新生の経験でした。同時に圧倒的な聖霊の働きを感じ、この身を神にお捧げしました。聖霊の満たしを体験した日でもありました。
イエスの十字架の死の目撃者たちは、「イエスの死」によって新しい命に生かされたのです。そこから神の御計画された新しい時代が全世界に拡大していきました。
パウロは、このことについて次のように言っています。
私たちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形を取るであろう。(第一コリント15:49)
死ぬべきものとは、土に属しているものです。
信仰によって目覚め、復活の確信を持っている私たちは天に属しているものです。
この年のイースターに、あなたが天に属しているものであることを確信して、また一歩前進されますようにお祈りしております。
小田 彰