2025.12.28

「異邦人を照らす光」(年末の辞 神を待ち望む人)(ルカ 2:21〜35、詩篇 42:1〜5)

 

 

クリスマスの出来事から8日が過ぎ、イエスはイスラエルの律法に従って割礼を受け、御使いが告げた通りに「イエス」(ヨシュア 神は我らの救いである)と名付けられました。そしてモーセの律法による清めの期間が過ぎたので、エルサレムの神殿に礼拝に行きました。

そこにシメオンという人が待っていたのです。この人物がどのような人であったかは分かりませんが、

①正しい信仰深い人

②イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた人

③聖霊が宿った人

④救い主に会うまでは死なないという聖霊の示しを受けていた人

でした。

 

シメオンという名前はヘブル語で「神の声を聞く」という意味です。

明らかに、彼の人生の最大の目的は、神の救いの時が来て、メシアに出会うことでした。長年にわたり、神殿の広場に毎日通い、救い主と思われる幼子に出会うために、祈り続けていたと思われます。何歳であったかは分かりませんが、相当な年齢であったでしょう。この世のいかなる楽しみも、名誉も、家族の幸せでさえも、彼の願望ではありませんでした。「ただひとつの願いは、救い主にお目にかかること」でした。

 

聖霊に感じて、いつものように神殿に入っていくと、イエスを連れて入ってきたマリアとヨセフに出会ったのです。

 

シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたは御言葉の通りに、この僕を安らかに去らせて下さいます、私の目が今、あなたの救いを見たのですから。」(ルカ 2:28、29)

 

[年末の辞]

さて、1年の最後の日曜日に、歴史に残る指導者たちは「年末の辞」と言って、大切な言葉を残しました。

今年私は、「神を待ち望む人」とならせていただきたいと思っております。

①聖霊による御言葉を待ち望む人 

②教会のリバイバルを待ち望む人

③キリストの再臨を待ち望む人

でありたいと願っています。

 

かつて50年ほど前のことではありますが、英国のヨークシャーの聖会でお会いした、バーンズ牧師のことを思い出しております。戦争のために顔面を負傷し、頭蓋骨の形が変わってしまっていましたが、その表情が実に霊的で、神の栄光を反映するような人でした。多分私の人生において、直接出会った人の中で、そのような人は数人しかいないでしょう。

ただ、ひたすらに聖霊の御業がなることのみを祈り求め、ただキリストの栄光を待ち望んでいることが、まだ英語が充分わからない私にも感じられました。

 

2025年の締めくくりにあたり、あの方のように「神を待ち望む人」となりたいと願っております。待ち望む信仰は、しばしば疲れ果て、失望し、挫折することもありますが、聖霊によって奮い立って、また求めていく、そのような生き方です。

 

「我が魂よ。何ゆえうなだれるのか。何ゆえ私の内に思い乱れるのか。神を待ち望め」(詩篇42:5)

 

シメオンの姿のうちに、自分の生き方の指針を見させていただきました。

愛する兄弟姉妹の内にも、聖霊が語ってくださいますようにお祈りしております。

小田 彰