「大いなる喜びの音信」(ルカ 2:1〜20、ピリピ 2:6〜11)
2025年。クリスマスおめでとうございます。
今年はアドベントに入る1ヶ月前からヤコブの手紙を通してクリスマスの信仰について学びました。
既にキリストの誕生物語については、マタイによる福音書、ルカによる福音書で学んで参りました。それではクリスマスの出来事ではなく、クリスマスの意味はなんでしょうか?今日はヨハネによる福音書から学ばせていただきます。
ベツレヘムの野原で野宿をしていた羊飼いたちに天使が現れて言いました。
「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなた方に伝える。今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。」(ルカ2:10、11)
「大きな喜び」とは何でしょうか?ヨハネによる福音書には、
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。…すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。…そして言は肉体となり、私たちの内に宿った。私たちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:1〜14)と書かれています。
ここで用いられている「言」は、ギリシャ語で「ロゴス」です。天の神の御心の表現であって、それは見えないお方です。見えないロゴスが見えるロゴスとなってくださったのです「…となる」(become )はギリシャ語で「エゲネト」という言葉です。見えないお方が見える形をとって生まれてくださることを「受肉」(incarnation)と言います。
これがクリスマスの意味なのです。見えないお方が見えるお方に変わるとはどういう意味でしょうか?
①神の愛の表れです。見えない神を人は理解することができません。神の御心を知らせるために御子イエス・キリストが地上に下ってくださったのです。
②罪から救うためです。人間の罪の贖罪は代価が払われなければなりませんでした。天使では不可能です。肉体をとって地上を歩み、十字架にかけられて、血を流し、死んでくださったことによって、人類の罪の身代わりが可能となりました。
③聖なる模範です。罪赦され、救われたとしても、私たちがどのように生きるか、模範が必要でした。イエス・キリストのお姿の中に、私たちの生き方が示されているのです。「私に従ってきなさい」と言われた。イエス様を見上げて生きることができます。それが天国に通じる道です。
見えないお方が、見えるお姿をとってくださった事はなんたる幸いでしょう。まさに「大いなる喜びの音信」なのです。
さて、私は12歳の12月25日に洗礼を受けました。死の恐怖を感じ、永遠の命を受けたいという切なる思いで、悔い改めて洗礼を受けました。
20歳の10月10日に、イエス・キリストを心の内に宿す不思議な聖霊経験をいたしました。私の人生を何のために用いたら良いのか?どこに向かって歩いて行ったらいいのか?まさに自分の人生の意味を問いつつ、伝道者の道を選択しました。
それから58年が過ぎました。全く自分の未来が見えない不安な旅立ちでした。しかし今振り返って、確かにイエス様が私を導き、共にいてくださり、不可能を可能にしてくださり、過ちを示してくださり、今日も臨在していて下さることを体験しているのです。
見えない人生が、振り返って見えるイエスの足跡となったのです。これは深いめぐみです。
クリスマスの意味を思い巡らしていただき、あなたの人生にもイエス様が共にいて下さるその恵みをさらに味わっていただきたいと願っております。
小田 彰