2025.11.23

「分け隔てなく」(ヤコブ2:1〜13、第一コリント1:26〜31)

 

いよいよクリスマスが間近になって参りました。クリスマスストーリーが私たちに示すメッセージは、「最も貧しい姿をとった神の御子が人類に与える祝福」です。

イエスの弟と思われる祈りの人、ヤコブは、教会の中における愛と思いやりの欠如の姿に憂慮しました。

富める者、地位の高いものが来ると、丁重にもてなし、貧しいものがくると、粗雑に対応する実情を見て、彼の心は憂いに満たされました。この事は現在においても変わらないかもしれませんね。

キリスト教会が富と権力のある人に擦り寄っていく弱さがあります。また私たちの伝道も本当に貧しい人に思いを寄せているか問われます。

これは最も基本的なことですが、世界の救い主であるお方は、貧しいナザレの大工の息子として、宣教されました。

「私の兄弟たちよ。私たちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。…愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神はこの世の貧しい人たちを選んで、信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。…だから、自由の律法によって、裁かるべきものらしく語り、かつ行いなさい。憐れみを行わなかったものに対しては、仮借のない裁きが下される。憐れみは裁きに打ち勝つ。」(ヤコブ2:1、5、12、13)

 

さて、ヤコブが貧富の差や分断に対して厳しく注意を促した理由は何であったのでしょうか?それは彼が祈りの人であり、祈りが天に届くために妨げがあってはいけないという事の気づきによるものであると思います。それはイエスの言葉に表れています。

「また立って祈る時、誰かに対して、何か恨み事があるならば、赦してやりなさい。そうすれば、天にいます。あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださるであろう。」

(マルコ11:25)

教会が祈りの家であるとするならば、お互いの交わりを愛と思いやりの関係に整えた上で祈りなさい。そうすれば天の神は聞いてくださるでしょう。ただ個人個人が自分の願望を唱えているだけでは、天の神はお聞きにならないというヤコブ先生の洞察でありました。至極当たり前のことではありますが、現実的には難しい問題かもしれません。

 

ベツレヘムの飼い葉桶に生まれた主の御心もまた同じであったのではないでしょうか。

伝道者パウロも言っています。

律法の全体は「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という

この一句に尽きるからである。(ガラテア5:14)

 

「愛なき自己に目覚めることが、愛の始まりである」

 

今年のクリスマスに、貧しいもの、弱いものを愛されたイエス様のお姿に習うものとならせていただきたいと思います。

小田 彰