「信望愛主」
テーマ「約束の聖霊」
聖書 使徒行伝 2章29〜36節
    使徒行伝第二章はペンテコステの出来事の記録と、ペテロの最初の説教をまとめています。
    「このイエスを、神は甦らせた。そして、私たちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである」(2:
    32、33)
    旧約聖書ダビデ王の詩篇16篇を引用して、その約束の成就としてキリストが復活したことを語り、さらにイエス・キリストが約束されたことの成就としてペンテコステの経験をしたことを語っています。
    ペテロが語った最初の説教を、原始キリスト教における信仰告白(ケリュグマ)と言っています。
    ①イエスが十字架にかけられて死に、3日目に復活したこと。
    ②それは偶然ではなく、旧約聖書に予言されたことの成就であること。すなわち神のご計画であったこと。
    ③その福音の言葉に触れた人は人生態度が新しく変わること(新生)。
    これがまさに使徒行伝第二章のメッセージでもあります。
    
    今日のテキストで大変重要な事は「神があなた方が十字架につけたこのイエスを、主またキリストとしてお立てになった。」(2:
    36)いうことなのです。
    「主」と翻訳されている言葉はたくさんありますが、旧約聖書においては
    ①ヤハウェ。唯一の創造主であって世界を支配しすべての中心であられるお方。
    ②
    アドーナーイ。モーセの律法以来神の御名をみだらにに言ってはいけないと言われていましたので、「アドーナーイ(主)」が用いられました。
    新約聖書においてはギリシャ語で書かれましたが、
    ③キュリオスが用いられました。kurios
    は当時のローマ皇帝はじめ王たちにも用いられました。伝道者パウロは「主イエス」と言う表現を大切に用いました。ルカはその弟子でしたので、ルカによる福音書とこの使徒行伝においてたびたび用いているのです。
    
    あなたのキュリオスはイエス・キリストですか?この問いかけは大変重要なテーマです。英語では
    Lordship of Jesus
    Christと言って
    「イエス・キリストの主性」と言われるテーマです。イエス・キリストを我が主とする事は絶対的信頼と、絶対的服従を意味します。またそのためにいかなる犠牲をも払うことを意味しているのです。
    
    7月から「信仰とは」というテーマでヘブル人の手紙11章から学びます。信仰とは何かという問いに正確に答えるのは難しいことかもしれません。
    洗礼を受けているとか、教会に行っているとか、聖書を読んでいるとかは十分な答えではありません。
    私は4つのテーマがあると考えています。
    ①全てにおいて神を第一とすること。
    ②どんな必要なことも全て神に依存し、神が与え、導き、勝利させてくださるという確信。
    ③それがたとえ苦い杯であったとしても甘んじて受ける覚悟。
    ④聖書の約束はその言葉通りに必ず成就するという確信。
    本物の信仰を求めようとする時、大変厳しく、ハードルが高いことに気づきます。その中で①神を第一とする人生こそキリストを我がキュリオスとすることなのです。
    日曜日の礼拝を守ること。現実生活の優先順位をイエス・キリストに置くこと。金銭においても、旅行や仕事の計画を立てる場合にも、誰をキュリオスとするかが問われます。
    「そんなにうるさく細かく言わなくても良いではないか」というつぶやきは聞こえますが、もしあなたが本当の信仰の力を見出したいと願うならば、あなた自身の生活のプライオリティー(優先順位)を決めなければなりません。
    
    ペンテコステの聖霊はペテロにイエスをあなたのキュリオスとしなさいというメッセージを語らせたのです。
    
    私は若い頃から日本刀を見ることが好きで、高島屋の展示場を見に行ったものです。同じ日本刀であっても焼きが違うのですね。きっと切れ味も違うのでしょう。鋭い輝きを持った信仰にあなたも満たされますようにひたすら祈ります。それだけが本当に悔いのない一生を約束する道です。
    祝福をお祈りしています。
小田 彰